2017年6月30日金曜日

実質的に勝つ

運動会の時期に書いた記事。

運動会では、表現などの一部を除き、競争がつきものである。
応援合戦や綱引き、リレー、学年団体種目などは、チームでやるものなので、指導者の側も熱が入る。

この時期になると、この「競争」の使い方、捉え方が大切であると切に思う。
6年前にメルマガに書いた記事だが、以下引用する。
=============
(引用開始)
大縄などの大会が校内であると、隣のクラスの記録が気になり出す。
まあ、大抵は「一番になりたい。勝っていたい。」と思っている。
それ自体は悪くないのだが、相手の記録が伸びることに恐怖心を抱くのは問題である。
それは、つまり暗に「自分達はそこまで伸びない」と自己暗示をかけていることになる。

逆の発想でいく。
つまり、周りのクラスに、もっともっと強くなって欲しいと願うのである。
心から願うのがポイントだ。
そうすれば、自分達もそれ以上になれる。
目指す頂が高くなるのである。
他のクラスで自分達以上の記録が出たと聞いたら、素直に喜ぶ。
達成しているクラスがあるので、現実的である。
自分達にもできるというイメージを持ちやすくなる。
自分達が突破したら、それを周りに伝える。
すると、周りがさらに強くなる。
正のスパイラルができあがる。
ちなみに本校では、週に1回全クラスの最高記録を放送することで、これを行っている。

大縄、8の字跳びの目的は何か。
クラスの団結を深め、より良い人間、より強い人間に育てることである。
隣のクラスの子どもまで良くなったら、一石二鳥ではないか。
人の成功を、心から喜ぼう。
(引用終了)
==============
今でもこの考え方は変わらない。
自分がもっているのは学級の子どもだが、所属はその学校である。
学校全体の子どもが良くなった方がいい。
当たり前である。
私は、できれば、学校だけでなく、全国の子どものためになれたらいいと思ってるので、このメルマガを発行したり、本を書いたりしている。
ブログ上で「大縄・8の字レポート」を配付したのも、そのためである。
(ちなみに今でも同じもので良ければ配付している。希望者はメールでご連絡いただきたい。
活用していただけた方が多数いて、嬉しい限りである。)

「勝ちにいくことに価値がある」とは、他の誰でもなく、私の言葉である。
これは「勝つことに価値がある」という言葉とは大違い。
それなら、どんな過程を経てどんな手段を使っても、勝てばいいということになってしまう。

甲子園のように、勝つことで選手も指導者の側も将来が開ける場なら、まだ話はわかる。
どんな辛い思いをしても勝ちたいと願うだろう。
また、オリンピックのような大舞台の話を持ち出す人もいるが、これも全く別。
それは、勝負の重みも目的も全く違う場である。
国の経済や威信も絡む。
そこで作戦や練習方法をばらして負けてしまっては、話にならない。
「勝つ」こと自体に大きな価値がある場である以上、やむを得ない。

ただ少なくとも、運動会や地域の縄跳び大会は、そんな場ではない。
目的は、あくまで「子どもを育てる」場である。
競争を通して、子ども同士が伸びることが大切である。
隣のクラスが失敗したり悩んでるのを見て「しめしめ」と思わせるようでは、真逆の教育である。
隣のクラスが強くなったのを見て「すごい!うちも負けてられない!」と燃えるのが正しい競争の利用である。

だから編み出した必勝法は、公開してしまう方がいい。
これについて、大反対する人がいるのも知っていて、敢えて言う。
そういう考え方の人は、けちくさいと思う。
度量が狭いなと思う。
技術は、共有されるからこそ技術の価値が出るものなのである。
それで特許を取りたいのでなければ、さっさとオープンにしてしまえばいい。

私自身、ここで失敗することを何度も経験している。
何かちょっと見栄を張って勝ちたい時は大抵、結果的に大負けするのである。
しかも負けた後の、後味も悪い。
最悪である。

必勝法をきちんと公開すると、子どもがオープンになる。
「隣が高まるから自分達ももっと高まる」というマインドが前提である。
一番いい状態だと、子どもが隣のクラスの友達を見て、その友達にアドバイスをするようになる。
同様に隣のクラスに教えてもらったり真似したりして、更にレベルアップする。
そうなると、本番も正々堂々と清々しく勝負できる。
そして、逆説的だが、結果的にこれを多く出せたチームが勝つことが多い。
必勝法をより多く編み出したチームが、やはりそれを使いこなせるのである。
さらに、伝える過程で、自分たちの不備にも気付くのである。
算数を友達に教える時と同じである。
要は、運動会だけでなく、日常の授業がすべてということである。

勝負の相手は、常に自分。
そのために、周りにも一緒に強くなってもらう。
強くなろうとしないと、その過程すらも起きない。
それが「勝ちにいくことに価値がある」という言葉の本質である。
あくまで「私」に勝ちにいくのである。
あらゆる場面で応用の利く考え方であると思い、紹介してみた。

2017年6月28日水曜日

子どもは真似の天才

いつも気になっていることについて。

最近、朝もテレビを見なくなった。
理由は、ネットと違い、テレビは情報を選択できないためである。
見たくない、聞きたくない情報が入るからである。

朝のニュースは、家族全員が見ることになる。
子どもも見る。
ニュースを知ること自体はいい。
ただ、見ない方がいいニュースの割合が多すぎる。

何かというと、殺人等の各種重犯罪や、凄惨な事故である。
社会を知る手段はあってもいいが、割合の問題である。
爽やかなニュースを流してくれればいいが、テレビは視聴率が命。
そうなると、スキャンダラスなものがいいということになる。
子どももが朝一起きてリビングで最初に触れる情報が殺人や放火では悲しい。

子どもは、見たままを学習する。
「真似の天才」なのである。
そこへの善悪や評価は関係ない。
(大人も同じだが、子どもの吸収率の方が高い。)
心理学でも「観察学習」というのがあり、脳は判断なしに、そのまま真似た行動をすることがわかっている。
繰り返し見るテレビ番組の影響力は、絶大である。
見る番組によっては、そこでプラス行動を学習する面もある。

日常の学級経営においてもいえる。
直して欲しい行動や叱責を繰り返し伝えると、その行動そのものを学習することになる。
逆に、望ましい行動や褒めることを繰り返し伝えても、同様の効果が得られる。
叱責に意味があるのは、特にそれを悪いことと自覚していない時である。
だから、叱るより褒める割合の方が10倍ぐらい多い方がいい。
(特に子育ての場面においては、現実的にはそうも言ってられないのが事実ではある。
 親子のバトルは果てしない。)

わざわざ悪い行為を繰り返し伝えない。
良いところをもっと指摘する。
子ども同士の関係にはもちろん、大人にもいえることである。

2017年6月26日月曜日

教育力のある子ども集団を育てる

5月に他県の教育委員会に招かれて行った、研修講座で話した内容。

学級における2対6対2の話をした。
問題行動や遅れの目立つ2割にひっぱられないこと。
自主的に動く2割の行動には特に着目して広めること。
6割がどちらに動くかで決まるということ。
結果的に、困難の多い2割も救われるということ。

かなり基本的なことだが、失敗の大半はこの対応にある。
特に5月から6月は、子どもも問題行動を起こしやすい。
大人も子どもも疲れる時期なのだから、自然なことである。

親は、我が子がどうかということに最も着目する。
当然である。

担任は、クラスの子ども全員、一人一人がどうかということに着目する。
一人でも問題を抱えている子がいれば気になるし、全体としても気になる。

その辺りの意識の差をもつこと。
親が我が子を中心に見てくれと要求するのは、ある意味当然である。
その願いをまずは受け止める。

その子だけをかまっていれば、当然他の子やその親から見てくれと要求がくる。
だから、全体を見る目が必要で、一人で学級を抱え込まない事が大切である。
周りの助けを得る。
何より、子どもの助けを得る。
手のかかるところにばかり着目していると、そこを落とす。

教育力のある子ども集団を育てる。
そのためには、きちんとやる子を落とさない。
基本的なことだが、大切なことなので、改めて書いてみた。

2017年6月18日日曜日

公開研究会 文科省の先生の話が聞けるチャンス

公開研究会の案内。
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

以前にも紹介したが、私は、次の金曜日に4年生の「ネット型ゲーム」の授業展開を公開する。
ネットをはさんでボールをやりとりし、相手陣にボールを落としたら得点というシンプルなルール。
これだけのルールでかなりバレーボールに近付くとは思うが、そこからは工夫次第。
どんな作戦やルールを子どもたちがつくりながら展開がしていくかを見ていただきたい。

同日には2年生の表現リズム遊びも展開される。
ちなみに千葉市は、表現運動を長く研究している地域である。
千葉市から着任した同僚の授業展開なので、こちらもご覧いただきたい。

そして、今回お伝えしたいのが、午後の「教育フェア」。
選択式だが、ぜひとも体育に来ていただきたい。
2020年パラリンピックの種目である「シッティングバレー」を体験していただく。
1980年より正式に認定されている種目だが、意外と一般に知られていない。
障害の有無に関わらず楽しめる、ユニバーサルデザインな種目である。
運動が苦手という人ももちろん大丈夫。
勝負の分かれ目は「作戦」と「チームプレー」。
ぜひ一緒に「アクティブ・ラーニング」の授業を体験していただきたい。

なお、一日を通して、文科省の高田彬成先生にご指導をいただける。
高田先生は「体育科教育」等の体育専門雑誌執筆を始め、数々の場で講演もしている体育界の「オピニオンリーダー」である。
現在の体育科教育の第一人者といえる。
なぜそんなビッグネームを本校体育科のためだけに呼べたかというと、それはいわゆる「縁」と「運」である。
人が人を呼び、繋がる。
私は、ご存知の通り運がいいので、「運」ばれてきた縁で繋がれた訳である。

次期学習指導要領のことについても質問できる大チャンスである。
授業後の分科会はもちろん、教育フェア1のシッティングバレーの後でもご講義をいただく。
ちなみに、教育フェア1がジャージ着用なので、そのままの恰好で参加していだたいてOKである。
文科省の有名な先生の話を、実技を交えて聞けるまたとないチャンスである。
(そして、シッティングバレー自体が、単純に楽しい。)

6月23日(金)は「本校児童のために、文科省の先生へ次期学習指導要領の体育を学びに出かけます」で決まりである。
学校にとっても、必要な学びのはずである。
特に体育主任なら、尚更言いやすい。
年休よりも、「出張」で堂々と来て頂きたい。

また、2日目は体育の授業が1本と、全体講演もある。
こちらは、5年の「バスケットボール」の授業展開である。
私の同僚が尊敬してやまない、印西市の鈴木弘之先生が講師である。
私も初めてお話が聞けるので、この日も楽しみである。

なお、2日間にわたり、体育館前では明治図書や各出版社のブースが出店される。
私の著書もあるので、まだの方はお手にとっていただきたい。

皆様と直接お話する機会がもてれば幸いである。

2017年6月16日金曜日

クレームは、願い

先月、厚木市教育委員会にお呼ばれして、講座をもたせていただいた。
その内容から。

「学級経営」と「切り返しの技術」をテーマにお話をさせていただいてきた。

色々話したが、切り返しワードの要点は一つで、

お互いの願いを近づけること
である。

例えば「クレーム」は「文句」ではなく、「願い」そのものである。
そのままネガティブに受け止めると、自己防衛と弁護に走りたくなる。
願いなのだから、まずは受け止めて、こちらの願いも伝える。
この願いをます受け止める、という過程が、言うは易く行うは難しのポイントである。

2017年6月14日水曜日

「これやっときゃ大丈夫」は、ない

だいぶ長い間ひっぱっているが、小学館セミナーでの学び。
いいものは広めるべきなのでシェア。

メイン講師の一人、菊池省三先生の言葉。

「これやっときゃ大丈夫」は、ない。

それがもしあるなら、戦後何十年でとっくに発見されているはず、ということである。

菊池省三先生といえば「ほめ言葉のシャワー」が有名だが、その人が言うのだから、説得力がある。
(私も同じことを何度も言っているが、やはりそこは実践の長さと深さの差である。説得力が違う。)
自身の実践が広まってくるほど、誠実さをもって強調したくなる言葉であると思う。

うまくいっている人の話だとか、著名な先生の言うことだと、鵜呑みにしすぎてしまうことがある。
「鵜呑み」とは読んで字の如く、鵜がするように対象を噛まずに丸呑みすること。
「よく理解せずに受け入れること」の比喩である。

何度も言っているが、「ほめ言葉のシャワー」は、すごい。
ただし、菊池実践は、相当に深い。
そこだけ真似しても、全く形にならない。
「ほめ言葉のシャワー」が菊池実践のシンボルとして広まっているだけである。
本当にやるなら「菊池道場」等に入るなり、菊池実践の本を何十冊も読んだりセミナーに出かけたりして、深める必要がある。

学級経営において、「鉄板」の手など、ない。
千手観音よろしく、多くの手をもつことである。
千手観音が多くの手をもつのは、どのような生命をも漏らさず救済しようとすることからであるという。
こちらは神様ではないので、すべてを救うことは難しいかもしれないが、最低でも学級の子どもの人数分の手は必要になる。

だから「これやっときゃ」がない以上、たくさんの手法を学んでもつしかない。
「意図的な経験」を意識して何十年もやっている、本物のベテラン教員の方が、若手より対応の幅が広い理由である。
時代が激変しようがそうでなかろうが、教える立場にある以上、一生学び続けるしかない。
私の尊敬する野口芳宏先生は齢八十を越え、未だ学び続けている。
だからこそ、多くの人の尊敬を集め、教えをこう人が絶えないのだと思う。

「これやっときゃ大丈夫」は、ない。
人前に立つときは、緊張感をもって準備をし、その上で楽観的に目の前の事に当たりたい。

2017年6月12日月曜日

自分の周りにいる人こそ自分自身

以前紹介した『人生はあるあるである』からの気付き。

この本に「自分の周りにいる人こそ自分自身」という小タイトルの話がある。
給料が安いとか上司が悪いとか、不満を言う人はどの社会にもいる。
しかし、これは当然だという。
例えば、相手から雑な扱いを受けた時。
「自分はいい加減な対応でいいと思われている。」と考える。
つまり、もっと頑張らねばならない。

相手の対応の悪さで怒っている若手には
「お前がナメられてんねんで」
と教えてあげるという。

私も共著『やる気スイッチ押してみよう!』の中で、
「苦手な相手は鏡」ということを書いている。
全く同じことである。

相手に、不平・不満を抱いたら、自分が至らないということ。
子どもにダメなところがあったら、自分をふり返ること。
だらしなさに腹が立つようなら、自分の中にもそれがある証拠である。
もっと努力すればいいのにと思ったら、自分はどうかと考えること。

相手を批判するのは簡単。
しかし、批判して人を指さす時、「人差し指」は文字通り相手をさしているが、小指と中指と薬指は、自分を指さしている。
批判している相手の三倍は自分のことである。
何か言いたくなったら、ぐっと我が身をふり返るようにしたい。
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