2021年9月24日金曜日

白票と投票放棄が絶対にダメな理由

前号の、ルールや現状をどう変えていくかということの続き。


ここにおいて「世論」というものの力は強大で、法律改正といった大きな動きの後押しにもなる。

現状ルールにおいて既得権益者の立場にある者は、従わせている相手に騒がれ動かれるのを嫌がる。


これは、選挙を例に考えるとわかりやすい。


日本の選挙における投票率の低さは、「日本の政治が変わらない」ことの中心的要因である。

当たり前に聞こえるが、なぜそう言えるのか。


今の社会を変えたいなら白票や投票放棄は絶対にダメ


この今更な言葉の理由を、子ども時代から論理的に理解していれば、必ず投票率は上がる。

この論理の仕組みこそが、小学校レベルで確実に教えるべきところである。


なお今回紹介するこのロジックについては、私見ではなく以下の本からである。

『自分の頭で考える日本の論点』  出口 治明 著 幻冬舎新書  )


しかし、この仕組みを日本ではきちんと教えてこなかった。

よって投票率は世界平均より大幅に低く、特にこれからの社会を担うべき若年層の投票率は散々なことになっている。

意図的なのかもしれないし、上に逆らわず黙って従うことを覚えてきた必然の結果なのかもしれない。


「選挙に行かない」ということ、あるいは白票を投じるということ。

恐らく「どうせ誰に入れても変わらない」「自分の一票なんて」という思いからである。

あるいは、単に面倒だからである。

面倒になるのも「どうせ・・・」の自己無力感がそうさせている。


白票や投票放棄の実効的な意味は、単なる選挙権の放棄に留まらない。

既存の有力候補者(多くの場合既得権益者)への投票と同じになる。

つまり「今のままがよい」という状態を強力に肯定して推進する原動力になる。

ここが一番知るべきポイントである。


なぜそう言えるのか。


既得権益者には「組織票」などの先に決まっている票(固定票)が誰よりも多くあるからである。

大きな組織に属しているほどここへの依存度が強い。

逆に言えば、固定票以外の浮動票が減れば減るほど、既存の固定票をもつ者が当選しやすくなる。

これは選挙を採用している場なら世界共通の原理原則であり、あらゆる縦割り組織にもそのまま言える。


だから既得権益者にとっては「全体の投票率を上げさせない」という方向に有権者を導くのが正しい戦略になる。

「選挙なんか行ってもどうせ変わりませんよ」「あなたの一票は無力だしムダですよ」

と思わせ、現状を変えたいと不満をもって動く「邪魔な人」に対しては、黙って動かずいてもらうのが最も都合がいい。

(特に若年層の票は高齢者と違ってかなりの浮動票なので、脅威になりやすい。)


今、法を変えられる有利な立場にいる人たちが、本気で全体の投票率を上げようとするかどうかである。

ネット利用などでもっと若者が積極的に選挙に参加できる手段はいくらでもとれるはずである。

現状その方策はまず採用されないと思ってよい。


子どもたちに主権者教育が絶対に必要な所以である。

(今回の学習指導要領改訂で文科省の出した方針の中でも、ここを前面に打ち出したことは特に素晴らしいと思う。)

毎回30%程度と最も投票率の低い20代と30代の投票率が、倍になって高齢者と同じ水準まで上がれば、日本は確実に変わる。

年をとってから選挙に行くより、若い時に行った方が断然自分の人生にインパクトがあると強く教えるべきところである。


「どうせ自分には世の中は変えられない」と選挙権を放棄する。

これは実は、知らない内に「こんな世の中」を作っている現状維持を強力に支持してしまっている。

国民の大多数が何がなんでも選挙に投票するようになると、この国は確実に変わる。

(ただし、「愚衆政治」などと揶揄されるように、国民レベル自体が低いと、民主統治はよりひどい結果を引き起こすようである。)


集団が騒がない限り、現状ルールは「集団に喜んで受容されている」とみなされる。

つまり、変えたい場合は、集団で不満の声を上げて実際に動く必要がある。


学校現場で言うと「不満だけど黙っている」「変なルールだけど変えようとはしない」ということが多々ある。

教員にその姿勢があるから、子どもにも同じようにある。

現状に不満がある時は自ら動いていいと言っても、動かない。

これは即ち「現状維持への強力な支持表明」である。


ある集団において、みんなで黙っている以上、みんなでそれを肯定しているのと同じである。

それこそが、既得権益者の望む姿であり、「理想的な奴隷」の姿といえる。(=定額働かせ放題)

理不尽や不満があっても黙っていてくれるからこそ、ブラック労働や職場の陰湿な虐め、スポーツ界や部活動でのしごきが横行できる。


我が身に刺さるので厳しいが、現在のブラック労働や陰湿な匿名ネット社会全体を作っているその根源が、学校教育である。

自分たちが学校で育ててきた子どもたちが、そういう大人に育ってしまったということである。

理不尽にもじっと耐え、不満があっても口にしないで無思考に従い、溜まった不満は陰口かSNSの匿名投稿で解消する。

(あるいは使う立場に立ち、そういう扱いをする人間である。)

子どもは大人の鏡であるのだから、大人の側が根本的な原因と考えるのが自然である。


つまり学校の「ルールが・・・」「揃えないと・・・」「今までもそうだったから・・・」

という全ての悩みは、全て私たち大人が、自分たちがこれまでに蒔いた種である。

自分たちで蒔いた種から出たものは、自分たちで刈り取らねばならない。

実際の社会と大きくずれた学校独自の「常識」については、今後自ら責任をもって打破していく必要がある。


まずは、これを見かねた世の中の風が後押ししてくれるところに乗ることが大切である。

例えば、働き方改革。

「働かせ方改革」と冗談を言われてしまう現状を変え、自分でも本気で変えようとする。

「今までそうだったから」という不正な労働時間延長の強要に対しては、NOをきちんと職員全体で表明するようなことも大切である。


この時、決して「子どものためだから」のキラーフレーズに騙されてはいけない。

学校で教員ががんばることは、全部子どものために決まっている。

だからこそ教員自身が無理強いされない中で、子どものために心から働けるような健全な職場をつくることが大切なのである。

本当に社会や学校が「子どものため」を考えているなら、もっと人員等を増やすための予算が充てられて然るべきである。

「助け舟は出さないけど倒れるまでがんばれ」は、単なる命令者側の身勝手であり、不当命令に進んで応じて倒れる必要はない。


公的に管理されて成り立っている学校の教員は、「子どものため」を金科玉条に挙げられると、理不尽なことでも声を上げにくい。

しかしながら、今からでも学校の非常識な慣習やルールに疑問をもち、行動に移す人が増えていけば、学校は変わっていくはずである。


「どうせ変わらない」「何もしない」という白票と放棄の選択肢は捨てる。

無駄だと思わず自分も一石(一票)を投じる。

決してあきらめずに自ら動くことで、変わるということを事実で示していく必要がある。 

2021年9月22日水曜日

ルールは不動か

 夏の間、オンラインが中心ではあるが、多くの学習会に出てきた。

各種学習会で共通して話題になったことがある。


学校のあらゆる「ルール」に関する問題である。

「変えたいけど変えられない」という点が多くの悩みの中心になっているようである。

ここの答えは明確で、変えようとみんなが動けば変えられる。


今回はこの点について述べる。

慣例も含めたルールが問題の中心となっているので、まずはルールについて考える。


ルールについては、責任の所在で考えて二つに分けられる。

(便宜上A,Bをつける。)


ルールAタイプは、その集団に属す上で前提としてあるルール。

国民という集団規模でいうと、憲法や法律がその代表格で、予め定められているものである。

会社員や学校などの集団規模で考えれば、雇用契約書、校則など、あるいは入試の要項などに書かれているものである。


その集団に属すにあたり前提として守る義務が生じるタイプのルールである。

ルールの遵守を監督し担保する責任の所在は、集団の各成員ではなく、責任者である。

(成員のルール遵守を促すために、違反に対しては何かしらの罰則規定があることが多い。)


学級だと、学級開きの時に担任が「守りましょう」と示すものがこのAタイプのルールである。

あるいは「夏休みのしおり」に書かれているような、学校が示すゲームセンターや花火の使用等に関するルールなどである。


Aは「トップダウン型」のルールともいえる。

組織の安全保持のためにも必要な大枠であり、これが全くない状態は組織としてあり得ない。


もう一つのルールBタイプは、集団の成員内で話し合って決めたルール。

問題が生じることによって、必要に応じて作るものが多い。

そのルールを担保し守るのは、ルールを設定した全員である。


一般社会だと、労働組合によってできたルールなどはこれである。

「こういう時にはこう動こう」と自分たちの会合でルールを決めて申し合わせをする。

もちろんその組合に入っていない人は知らないし、職場が同じでも対立する立場にある管理職にはそれを守る義務がない。

組合員が自分たちで作ったルールを自分たちで担保する必要がある。


Bは「民主統治型」のルールともいえる。


学級だと、子どもたちの話合いによって作られたルールがこのBに当たる。

私の学級だと、できる際に一言「いつかこのルールをなくせることを目標にするとよい」とアドバイスする。

そのルール設定が生活を快適にするか否かは、子どもたち自身の行動にかかっている。


子どものいる家庭内のルールはAから始まってBに移行していくパターンが多そうである。

生活に関するものやゲーム・スマホ等の使用ルール、お小遣いに関するものなど全てこれである。

家族構成が変わる、または子どもの年齢が上がり成長するにつれて、ルールを話し合って決め直す必要が出てくる。

(昔のように使用人もいる大きな家で、家長が決めている家訓のようなものがある場合はずっとAかもしれない。)


ルールには、ごく大切な前提がある。

ABの両ルールとも共通で、どんなルールも「変更が可能」という点である。


しかし、当たり前に感じていると、これは「変えられないものだ」と思い込んでしまう。

これは誤った前提認識である。

変更難易度に関しては、重要な大枠のAの方がもちろん高く、Bの方が自分たちの手で直接できるので、より現実的である。

(逆に、Aを決められる立場の少数の人にとっては、Bの変更の方が口出ししにくいが、今回は考えないことにする。)


ルールは成員全体にとって不利益が多ければ、自然と強い反対運動が起きて変わる。

変更に至っては署名他の所定の手続きが必要になるが、あらゆるルール変更は集団の総意によって可能である。


そうはいってもそうならないと考える人が大半である。

選挙での投票率の低さがそれを顕著に物語っている。


長くなったのでここまで。

次号でも、ルールが不動でなく、変えていけるということについて考えていく。

2021年9月17日金曜日

二学期の始めは二度目の学級開き

メルマガ上で8月下旬に書いたものを、うっかり時期を外してしまったが、こちらにも投稿しておく。 

私は学級づくりの三原則として

1「安全・安心」

2「ルール」

3「楽しさ」

の3つを掲げている。

優先順位もこの順で、これを提唱しているのがここ10年ほどのことである。


最近は、次のように注釈を加えるようにしている。

1「安全・安心」(信頼できる相手)

2「ルール」(合意形成)

3「楽しさ」(自由と責任)


まず信頼関係からスタート。

これで安全・安心の土台づくりをする。


次に、合意形成の上でのルール作り。

これにより秩序と平和を保つ。


仕上げに、楽しい活動を取り入れる。

これをするには自由と責任が同じ分量だけかかる。

より大きな自由のためには、より大きな責任が伴う。

ちょっとしたレクをするにも、各自がある程度の責任をもてないとできない。

(鬼ごっこを想像するとわかりやすいかもしれない。)


実際は、この3つが順番に何度も繰り返される。

楽しい活動ができるようになったら、更に信頼関係が強くなる。

教師と子どもという関係から、子ども同士の信頼関係へと発展する。

ルールも同様、楽しさも同様である。


学級づくりで勘違いされそうなものを、割ととわかりやすく示しているのではないかと自画自賛している。

学級開きからこの3つの全てを取り入れていくことを提唱している。


2学期の始まりも再度意識して行うことである。

1.再開の喜びを伝える

2.ルールの再確認

3.学校に来てよかったと思える楽しい活動


この辺りが押さえどころである。

二学期の始めは二度目の学級開きだと思って、子どもたちと出会い直すとよい。


ちなみに、過去に書いたここに関連した記事もあるので紹介しておく。

参考:教師の寺子屋 2018.2.18「学級崩壊」=「学級がうまく機能しない状況」

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/02/blog-post_18.html


1,2,3のどこをスタートで優先するかは、学級の状態次第である。

何でも始まりには、十分な準備をして臨むことをおすすめしたい。

2021年9月16日木曜日

子育てをシェアする

虐待は、閉鎖的な空間で起きるということを書いた。

逆に言えば、閉鎖をやめて開放すれば、虐待は起きにくくなる。


今、子育てがどんどん閉鎖的になっている。

三世代が同居していた時代に比べて、一人の子どもを見る人数が圧倒的に少ない。

もっと前の、地域全体で子どもを見ていた時代に比べれば、尚更である。


一昔前は、たくさんの人で子どもを育てていたといえる。

母親自身、どうすればいいのか学ぶ機会も多かったはずである。

子どもをある程度放っておいても、色んな人に接する機会があったというのは大きい。


子育ては一人でするものではない、というのは今更言うほどのことでもない当たり前のことである。

しかしながら、実際は一人でやらされているという実態もあるのではないか。

特に母親が一人で責任をもってがんばっているパターンが多そうである。


また、自分自身に子どもはいないけれど、子どもに人一倍愛情を注いでできるという人だっている。

だとしたら、その人が関わった方がよりよく育つ可能性がある。


例えば、里親制度というものもある。

私の住む千葉県ではそれを「菜の花家族」という。

参考:里親制度(千葉県H.P.)

https://www.pref.chiba.lg.jp/jika/jidou/satooya/index.html


児童相談所で保護された子どもを養子縁組として育てる仕組みである。

里親として認定されるまでの壁が相当に高いが、それだけ信頼をおける家庭だという裏付けでもある。

15歳未満の場合は親権者の承諾が必要になるが、15歳以上になると、本人が決められる。


「実の親が育てないのは無責任だ」という意見もあるかもしれない。

しかし、親の責任追及どうこうよりも、その子どもが健やかに育つ権利の方がずっと大切である。

是非を問うとしたら、子ども自身がそれを望むかどうかだけである。


要するに、教育のあらゆる場面において、なるべく子どもを抱え込まずに、みんなで育てる仕組みがあればいい。

幼児期から色んな人が一緒に養育に関わるコミュニティがあればいい。

日本の現行の制度では難しいのかもしれないが、なるべく「我が子」として抱え込まないで済む仕組みである。

「我が子」という言葉自体も、所有している意識がないか十分に注意する必要がある。


ある人が「愚息」という言葉が嫌いだと書いていた。

全くの同感である。

所有している感が強いだけでなく、それを貶めた表現である。

子どもからすれば、はた迷惑な話である。

(類似表現に「愚女・愚妻・豚児」がある。

いずれも所有意識の強いエゴが感じられる、字面からして醜い表現である。)


親などという立場は、子どもがいるから自動的にそうならせてもらっただけのことである。

教師も同じである。

子どもがいなければ、教師も何もあったものではない。


だから、我がもの顔という意識を手放して、みんなで教育すればいい。

本来ならば、学級担任制度もやめた方がいいと考えている。

もっとオープンにみんなで見れば、競争意識も学級崩壊もなくなる可能性がある。

(さらに言うと、機械的に決められる学年というボーダー自体も本来はいらない。)

小学校でも低学年から教科担任制度及び学年担任制度が進めば、今ある苦労はなくなるかもしれない。


所有しないこと。

オープンにシェアすること。

これからの時代の教育はそちらにシフトしていくべきではないかと考える次第である。

2021年9月13日月曜日

色彩知育法と色の与える影響

夏の学習の一つとして、色彩知育法というのを少し学んだ。

これがとても良かったので紹介する。

(きちんと講師の先生にも承諾済である。)


日本子ども色彩協会ブログ

https://kodomo-shikisai.com/bloginfo/blog/2191/


メインは乳幼児教育ではあるが、小学校以降でも十分に活用できるスキルである。

大人向けに講習会があったので、それを体験してきた。


理解がまだかなり浅いが、簡単に言うと次のような力を養うという。


・感じる力

・言葉の力

・自分を信じる力


例えばワーク中に「好きな色を3つ選ぶ」という活動がある。

この3つを選ぶという行為自体が自分の頭を使って判断する活動になる。

どの色を選ぶといいとか、この色はだめとかは一切ない。

文字通り「色々」でいい。


本人が好きな色

使いたい色

心身に必要な色


これらを素直に出して行うことがポイントである。


その色を使って、絵を作る。

ここでも自分の感性と頭を使う。

正解はない。

発表の際には子どもの気持ちに寄り添った、肯定的な声かけを行う。


小学校の授業で図工を行うと、次の言葉がよく出る。


「これでいいですか?」


まさに「正解」が自分の外にあって、そこに合わせて調節していこうという姿勢である。

これをなくしていく必要がある。


この質問には、次のように答える。

「○○というテーマだけど、○○君はこれでいいと思う?」


これで「いい!」と言えばそれでいいし、「ううん」と答えたらそれでやり直すだろう。

自分自身に問えるように「そのまま返す」がポイントである。

比べない・評価しない・できるできないを問わない、が大切だという。


実際のワークは次の流れで行った。


ハミング呼吸

色・言葉のアウトプット

発表・言葉がけ


この日は「きらきら星」を聞きながら目を瞑って2分間ほどハミングをした。

驚くほど頭がすっきりクリアになる。

呼吸法の大切さも体感できた。


脳科学をもとに作られたメソッドであるというから、最初に呼吸法が入る。

「何でハミング?」と思ったが、やってみてよくわかった。

ハミングでゆっくりと一曲歌うと、否が応でも深い呼吸をすることになる。

なるほど納得である。


ここでは、色についても学ぶ。

色にはご存知の通り、波長がある。

赤系は波長が長く、青系は波長が短い。

夕日が赤く染まる理由、日が完全に沈んだ後に、空が青や紫色に染まる理由がそれである。(最後まで届く。)


色はもちろん視覚で感じるが、肌でも感じるという。

色は「波」だからである。

色は直接影響を与えるという。

寝室の色は、寝ている間ずっと波として影響しているということである。


そう考えると、真っ白な部屋、真っ黒な部屋などで育児をすることは、あまり好ましくない。

赤ん坊には視覚以前に色を感じる力があるのだから、様々な色に触れさせる必要があるという。


人格形成にも影響を与えるということで、興味深く学ばせていただいた。


言われてみれば、私は色の名前もあまり詳しく知らない。

名前がわからないということは、認識できないということになる。


例えば「赤系」というだけでも、紅葉色、梅重、海老色など色々にある。

知らなければ、それら色々な色も全部単なる「赤」という括りになる。

語彙力や理解力の発達とも関連するという理由がよくわかる。

色の識別ができるようになったら、人生が色とりどり豊かになるかもしれない。


どちらかというと、育児中のお母さんの受講者が多いようである。

読者の中で当てはまる方がいらっしゃるようなら、一度受けてみるのもいいかもしれない。

2021年9月11日土曜日

「女性に対する暴力の現状と課題 」から児童虐待を考える

 前号に引き続き、児童虐待について。


家庭に長くいる夏休みのような時期は、児童虐待を受けている子どもにとっての地獄である。

感染症防止のためにステイホームが呼びかけられ始めた昨年、大きく話題に上がったのが記憶に新しい。


今も、地獄のような毎日に怯えて暮らしている子どもが、日本中だけでなく世界中に確実にいる。

これらの子どもを救うには、関心をもつことがそのスタートである。


この「虐待」という場合、何かあった時に体罰や暴言を吐いたというレベルで留まらない。

「虐め(いじめ)」+「待(=継続的、習慣的にあしらう)」である。

継続的、日常的に虐げられている状態を指す。


虐待の起きやすさは、閉鎖性がポイントである。

オープンな空間では起き得ない。

オープンな空間だと「待った」が外から入るからである。

必ず、閉鎖的な空間で起きる。


学校でも、閉鎖性が強いと虐待は起き得る。

閉め切った教室内で、一人の大人だけがずっと子どもを見ている場合である。

つまり、小学校の学級担任制は、幼稚園のオープン保育や中学校以降の教科担任制に比べ、実は虐待リスクを孕みやすい仕組みである。

(これは部活動においても同じである。)


この小学校で当たり前になっている学級担任制度については他にも何かと問題点が多く、具体的な対応をして変えていくべきだと私は考えている。

教科担任制の推進は大変有効だが、予算を考えると現実的でない。

私としてはいずれ、学年全員で交代して全学級をみる「学年担任制」の方を推進したい。


職員室が閉鎖的だと、職員内での虐待も起き得る。

閉鎖的な空間という点では、想像の域を越えないが庁舎などでもそうなのかもしれない。

会社内やその部署内などでもそうなのかもしれない。

つまり、どこでも虐待は起き得るということである。


そして、最も閉鎖的で密な空間は、家庭である。

虐待は、家庭内についてが圧倒的に最も起きやすい。

家庭内には、外から一切が入れないからである。


今回取り上げたいのは、その中の夫婦間のDVである。


次の最新資料が参考になる。


「女性に対する暴力の現状と課題 」令和3年8月 内閣府男女共同局


PDFスライドのP.5に次の分析がある。

・暴力のいずれの行為も、女性の方が被害経験者の割合が高い

・女性の約4人に1人は被害経験があり、約10人に1人は何度も受けている


さらに、次の分析も重要である。

・特に女性は、「経済的不安」や「養育しながら生活していく自信がなかったから」の割合が高い


経済的にも依存していると、精神的にも依存が起きやすいようである。

それにより、相手に全てを支配され、奴隷のようにされるという恐ろしい構造である。


次のことも記されている。

・子供のいる被害女性の約3割が、子供への被害経験も認識


妻が虐待を受けていると、子どもも被害を受けている可能性が高いということである。

より弱い子どもにも牙が向くのは、それが心の弱い人間だということを考えれば、さもありなんというところである。

全体の1割の中の3割なので、0.1×0.3=0.03 つまり、全体の3%の子どもが少なくとも被害を受けているといえる。

35人学級で1人という割合である。

つまり、クラスに虐待を受けている子どもが一人もいないと考える方が不自然ということになる。


この内閣府の資料は、本当に大切なことが端的に示されている優れた資料である。

最新のものであるので、一度リンクをクリックして各データスライドのタイトルだけでも目を通しておくことを強くおすすめしたい。

(再掲) 

https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/pdf/kadai.pdf


なぜ夫婦間DVを先に取り上げたかというと、結局それが子どもへの虐待のきっかけになりやすいからである。

根本であるここを解決することで、子どもへの虐待を未然に防げる可能性が高まる。


さらに先の「10人に1人は何度も被害を受けている」というデータを改めて考えてみる。

これはつまり、誰しも自分の担任している子どもたちの内の1割の家庭に、夫婦間DVの可能性があるということである。

35人学級だったら、クラスの3~4人の子どもの母親は、虐待されている可能性があると見る。

あくまで平均データ上の確率論だが、どこでもそのように疑って見るのが公平であり妥当なリスクマネジメントの考え方である。

単に「あるけれど見えていない」だけと考えることである。


さらにそれを考えると、その親たちのストレスのはけ口を誰が受けているのかということである。

つまり、もし担任であるあなたがそれを受けているのだとしたら、自分のこと以外にも色々と考えるべきことがある。

児童虐待を考える上で、先に夫婦間DVの問題に関心をもつべきという提案は、そのためである。


夫婦間DVの問題は、児童虐待問題における大きな要因の一つである。

しかしながら、それが要因の全てではない。

他にも児童の発達特性への無理解やLGBTQ等の個性への無理解、貧困問題など、とにかく多様で複雑で根深い。


長期休み明けに担任がすべき仕事の一つは、この児童虐待へのリスクマネジメントの視点をもって冷静に見てみることである。

長期休み明けは子どもの様子の変化を観察することが何よりも重要であり鉄則である。

(だから本来、宿題チェックなどというどうでもいいことをしている場合ではない。

夏休みの宿題が手枷足枷になっているようでは本末転倒である。)


子どものため、本当に為すべき仕事に集中したい。

2021年9月9日木曜日

『52ヘルツのクジラたち』から児童虐待と学校のできることを考える

 次の本を読んだ。


『52ヘルツのクジラたち』 町田そのこ 著 中央公論新社


2021年本屋大賞の第1位で、どこの書店にも平積みされている本なので、見かけた人も読んだ人もいるかもしれない。

虐待児童、家庭内DV、LGBTQへの無理解といった社会問題を正面から取り上げている。

(そしてこれらの問題は全て根っこが繋がっているということもよくわかる。)


この本は教育関係者、特に小学校の担任は読んでおいて損はないように思う。

文学作品としての良さだけでなく、教育書以上に教育の在り方について考えさせられる本である。


この作品中に、虐待を受けていた主人公を小4で担任した教師への痛烈な批判がある。

自分を救おうという純粋な思いから、保護者に婉曲に「うまく」注意したつもりの担任。

親は注意を受け入れたように見せ、そこからは、学校に見えないように虐待がますますエスカレートしていく。


この親は、娘が担任に相談したのだと信じ込み、二度と絶対に逆らわないように、更なる凄惨な虐待による洗脳を行う。

学校では、きちんとアイロンをかけてもらった制服(実は子ども自身がやっている)を着るようにさせる。

親の対応が良くなったように振舞う主人公。


それを見て「よかったじゃん」

「(お母さんはあなたを)大好きなんだよ」

という担任の顔に

「唾を吐き掛けたくなった」というくだりがある。


学校ではよく「先生に何でも相談していい」という。

しかし、例えばいじめの場合が特に顕著だが、子どもはそれをまず教師には言わない。

頑なに「何でもないです」「大丈夫です」と拒み、否定する。

下手な対応をされると、いじめがより巧妙に、より激化するからである。


これは、対保護者でも同様である。

何か問題があった時に「お母さん(お父さん)には絶対に言わないで!」

と子どもが懇願してくる場合、その家庭では失敗に対し、かなり厳しい「お仕置き」が待っている可能性がある。


学校の教師の中途半端な正義が、子どもをより苦しめることがある。

しかしながら、かと言って見過ごすわけには絶対にいかない。

これは、かなり深く考えるべき事柄である。


また作中に出てくる「いい先生」に対して「育てやすそうな子だけ可愛がっている」と指摘する。

この教師への指摘は、この作中に出てくるあらゆる親に対しても当てはまる。


虐待されている子どもは、生半可なことでは助けられない。

そして、虐待されている子どもは、何がなんでも助けねばならない。


社会全体で、児童虐待への関心をもっと高めていくべきである。

同時に、家庭内DVへの問題への関心も高めることである。

夫婦間等の家庭内DVの鬱憤を、子どもへのDVや育児放棄として晴らしているという負の連鎖があるためである。


このような問題提起のある作品が一般に大ヒットしたということは、社会的意義がある。

児童虐待をなくしていくための取り組みについて、学校現場に働く人間としてはもちろん、書籍等を通じてでも行っていきたい。

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