前号の続き。
算数好きを増やしたい。
楽しいなら、好きになるはずである。
つまり、楽しくないと感じている子どもが多いのである。
なぜか。
わからないからである。
もっと砕くと、「正解できないから」である。
正解するには、解法が必要である。
6×4=?
さあ、考えてみましょう。
と、やったとすると、何か考えるだろうか。
否。
「24」と即答である。
しかし、考えるとは、「6×4=24だが、そもそもかけるとはどういうことなのか」
というようなことを探る行為である。
そういう深遠な哲学的思考は、小学校段階で求められることではない。
せいぜい、「6×4とは、6のかたまりが4つあることです。」ぐらいでいい。
6+6+6+6との違いを考えるのは、ずっと後でよい。
「24」と即答できたら、子どもは自信満々、得意満面である。
つまり、わかりもしないことを延々と考えさせるから、つまらないのである。
別に乗法の意味を考えるとかではなく、例えば割合を求める問題で式が思い浮かばない場合も、同じである。
どんなに考えたところで、とんちんかんな解が出るだけである。
だったら、さっさと答えと考え方を教えてやり、適用題でできるようにさせてやればよい。
そこでできなかったら、答えを見て次の問題でできるようになればよい。
やる内に「できた!」が実感できる瞬間を作ればよい。
それで、最終的にテスト段階でできたら、万々歳である。
できれば、楽しいし、好きになる。
要は、できるようにさせることである。
考えさせるのは、手段であり、目的でも目標でもない。
できるようにさせることが、算数好きを増やす。
(当たり前すぎて書くのも恥ずかしい。)
なぜ、あえてできないものに悩ませるのか。
奇々怪々な小学校算数界の常識である。
2011年12月10日土曜日
2011年12月8日木曜日
残業は「させてもらう」
すごく反感を買いそうだが、残業は「させてもらう」ものだと考えた方がよい。
「方がよい」というのは、そう考える方が本人の精神の為にも、健全な気がするからである。
残業や時間外労働は、自分の時間を削られているようで、損した気分になるかもしれない。
しかし実際は、それだけの仕事を信頼して任されていているということである。
他の人に任されず、自分に任されているのである。
そしてそれを、責任持ってやり遂げたいから、残業している。
他の人に任せられない、自分にしかできない仕事だから、残業している。
そういうプライドを持ってやっているのだったら、大いにやってよいと思う。
ただし、間違っても愚痴ったり、文句を言ってはならない。
全て自分の「選択」である。
「そんなことない」と言うかもしれないが、そんなことある。
この職業だって、自分で選んで切望してなったはずである。
「全ては私の責任です」
経営コンサルタントの青木仁志氏が「たまらなく好きだ」という言葉だが、私も大好きである。
この言葉を発する時、否定的な気持ちは微塵もない。
残業一つとっても、自分の選択であり責任である。
思いっきりやり遂げてやればよいと思う。
「方がよい」というのは、そう考える方が本人の精神の為にも、健全な気がするからである。
残業や時間外労働は、自分の時間を削られているようで、損した気分になるかもしれない。
しかし実際は、それだけの仕事を信頼して任されていているということである。
他の人に任されず、自分に任されているのである。
そしてそれを、責任持ってやり遂げたいから、残業している。
他の人に任せられない、自分にしかできない仕事だから、残業している。
そういうプライドを持ってやっているのだったら、大いにやってよいと思う。
ただし、間違っても愚痴ったり、文句を言ってはならない。
全て自分の「選択」である。
「そんなことない」と言うかもしれないが、そんなことある。
この職業だって、自分で選んで切望してなったはずである。
「全ては私の責任です」
経営コンサルタントの青木仁志氏が「たまらなく好きだ」という言葉だが、私も大好きである。
この言葉を発する時、否定的な気持ちは微塵もない。
残業一つとっても、自分の選択であり責任である。
思いっきりやり遂げてやればよいと思う。
2011年12月5日月曜日
教師の仕事は天職か
銀座クラブの経営者、ますい志保さんの本に
「給料の倍働けば、夢は叶う」というようなことが書いてあった。
作家の本田健さんは
「給料なしでもやりたい仕事か」
「給料と同額を支払ってでもやりたい仕事か」
この辺りを、「ライフワーク」(天職のようなもの)の定義としている。
自分にとって、教師の仕事はどうだろうか。
現在の自分を考えると、さすがにお金を払ってやる訳にはいかないと考える。
(生活が成り立たない。)
しかし、もし十分なお金が自分にあり、払える状況だったらどうだろうか?
それでもやりたい仕事か?
もしそうなら、完全に天職である。
無給でもやっていいというなら、相当好きだと言っていい。
そんなのとんでもないというなら、お金の為に働いている可能性がある。
何の為に働いているのか、振り返ることがあってもいいと思う。
「給料の倍働けば、夢は叶う」というようなことが書いてあった。
作家の本田健さんは
「給料なしでもやりたい仕事か」
「給料と同額を支払ってでもやりたい仕事か」
この辺りを、「ライフワーク」(天職のようなもの)の定義としている。
自分にとって、教師の仕事はどうだろうか。
現在の自分を考えると、さすがにお金を払ってやる訳にはいかないと考える。
(生活が成り立たない。)
しかし、もし十分なお金が自分にあり、払える状況だったらどうだろうか?
それでもやりたい仕事か?
もしそうなら、完全に天職である。
無給でもやっていいというなら、相当好きだと言っていい。
そんなのとんでもないというなら、お金の為に働いている可能性がある。
何の為に働いているのか、振り返ることがあってもいいと思う。
2011年12月4日日曜日
傍を楽にする
仕事は、働いた量ではなくどれだけの価値を提供したかで決まる。
働くとは「はた(傍)をらく(楽)にすること」ということを言った人がいる。
その通りで、周りの人にとって価値があることをした時、初めて「働いた」といえる。
つまり、決められたことをそのままやったのは「労働」ではあるが、「働いた」とはいえない。
決められたこと以上の価値を提供した時、初めて「働いた」といえる。
ルーティーンワークに追われている限り、「働く」ことはできない。
当たり前の仕事に、プラスアルファの価値の提供、ここに全力をそそぐべきである。
働くとは「はた(傍)をらく(楽)にすること」ということを言った人がいる。
その通りで、周りの人にとって価値があることをした時、初めて「働いた」といえる。
つまり、決められたことをそのままやったのは「労働」ではあるが、「働いた」とはいえない。
決められたこと以上の価値を提供した時、初めて「働いた」といえる。
ルーティーンワークに追われている限り、「働く」ことはできない。
当たり前の仕事に、プラスアルファの価値の提供、ここに全力をそそぐべきである。
2011年12月3日土曜日
給与と自分の価値
給与とは、仕事への対価として支払われる。
自分の提供した価値に対して支払われる。
教師の給与は高いのか低いのか。
それは、その人の提供した価値による。
給与以上の価値を自分は提供していると、はっきり言えるか。
これは、なかなか難しいことだと思う。
特に資金の出所が公共であるため、世間を納得させるほどでないといけない。
もし給与が低いなぁと感じていたら、こう考える。
自分が自分の雇い主なら、この人にどれぐらいのお金を支払うか。
意外と、もらいすぎかもと思うこともある今日この頃である。
自分の提供した価値に対して支払われる。
教師の給与は高いのか低いのか。
それは、その人の提供した価値による。
給与以上の価値を自分は提供していると、はっきり言えるか。
これは、なかなか難しいことだと思う。
特に資金の出所が公共であるため、世間を納得させるほどでないといけない。
もし給与が低いなぁと感じていたら、こう考える。
自分が自分の雇い主なら、この人にどれぐらいのお金を支払うか。
意外と、もらいすぎかもと思うこともある今日この頃である。
2011年12月2日金曜日
教師は最高の職業
人の役に立てるというのは、仕事をする上で最高のモチベーションになる。
教師は、その意味で、非常に恵まれた職業であるといえる。
例えば何か物を作る仕事だと、それがどう使われているかを見ないと、直接自分が役立ってる実感は持ちにくい。
教師は、常に役立つ自分を実感できる。
感謝してくれる相手が目の前にいつもいる。
こんなに幸せな仕事はどこを探してもなかなかないと思う。
採用試験の時には、あれほど切望してついたこの仕事。
感謝の念を持って毎日の仕事をしたい。
教師は、その意味で、非常に恵まれた職業であるといえる。
例えば何か物を作る仕事だと、それがどう使われているかを見ないと、直接自分が役立ってる実感は持ちにくい。
教師は、常に役立つ自分を実感できる。
感謝してくれる相手が目の前にいつもいる。
こんなに幸せな仕事はどこを探してもなかなかないと思う。
採用試験の時には、あれほど切望してついたこの仕事。
感謝の念を持って毎日の仕事をしたい。
2011年12月1日木曜日
教師生活で何を目指しているのか
私は自分の学校に採用試験を受ける講師や実習生が来ると、必ず尋ねる。
「何で先生になりたいの?」
明確に答える人は、ほとんどいない。
「子どもが好き」「教える仕事がしたい」「子どもと楽しく過ごしたい」
面接なら、どれも×の回答である。
教師という職業において、それはやりたい理由ではなく、「前提」である。
(子どもが嫌い、教えるのが嫌いな教師に、誰が教わりたいというのか。)
やはりこういうことには、自分なりの具体的な理由や夢を語れるようにしたい。
例えば、
「自分は子どもの頃いじめられていた。
辛い思いをしている時、先生が助けてくれた。(または助けてくれなかった。)
だから、自分は教師になって、辛い思いをしている子どもを一人でも多く救いたい。」
具体的なエピソードや経験から、何を目指しているかまで答えられたら、芯があると判断できる。
(嘘はいけない。)
私も明確にある。
日々の実践も、メルマガ発行も、全て自分の目標に向かっての行為である。
目標に向かって、毎日0.1%の成長をすること。
これが私の日々の目標である。
1ヶ月すれば、3%成長、1年で何と36%も成長する。
(実際、そううまくいかない。下がってる日もある。)
「何のために教師になったのか」は、教員採用試験を受ける人のためだけの問いではない。
既にこの職業に就いている、全員に常に投げかけられている問いである。
「何で先生になりたいの?」
明確に答える人は、ほとんどいない。
「子どもが好き」「教える仕事がしたい」「子どもと楽しく過ごしたい」
面接なら、どれも×の回答である。
教師という職業において、それはやりたい理由ではなく、「前提」である。
(子どもが嫌い、教えるのが嫌いな教師に、誰が教わりたいというのか。)
やはりこういうことには、自分なりの具体的な理由や夢を語れるようにしたい。
例えば、
「自分は子どもの頃いじめられていた。
辛い思いをしている時、先生が助けてくれた。(または助けてくれなかった。)
だから、自分は教師になって、辛い思いをしている子どもを一人でも多く救いたい。」
具体的なエピソードや経験から、何を目指しているかまで答えられたら、芯があると判断できる。
(嘘はいけない。)
私も明確にある。
日々の実践も、メルマガ発行も、全て自分の目標に向かっての行為である。
目標に向かって、毎日0.1%の成長をすること。
これが私の日々の目標である。
1ヶ月すれば、3%成長、1年で何と36%も成長する。
(実際、そううまくいかない。下がってる日もある。)
「何のために教師になったのか」は、教員採用試験を受ける人のためだけの問いではない。
既にこの職業に就いている、全員に常に投げかけられている問いである。
登録:
投稿 (Atom)
-
教室は、自分の考えを発表する機会が多い。 そして、声が小さいと聞こえづらい。 そうなると「大きな声で」という指導が入りがちだが、これだけだとうまくいかない。 前提条件がある。 まず、たとえ小さな声でも何とか聞こえる環境を作る方が先である。 原則は、仲間の発表中は全員が黙って聞く姿...
-
あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。 しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。 街中、都会になるほどしなくなる。 人が多すぎる為かもしれない。 それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。 (全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の...
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...