学級経営に関して、「管理」ということについて思うことを書く。
ある時はたと気付いた。
人が他を管理する対象とは何か。
それは「モノ」である。
あるいは「環境」である。
モノは管理しないと、滅茶苦茶になる。
放っておけば増えて溜まるし、汚れて劣化する。
それらを捨てたり手入れしたりするのが管理である。
物理的環境も管理対象である。
例えば換気をして空気の入れ替えをする。
空気の管理をしているということである。
加湿器の水を取り替えたり、フィルタを乾燥させたりするのもそうである。
放っておけば空気も水も濁るため、必要である。
では「人間」は、管理できるか。
自分自身の管理を考える。
これは、ある程度できる。
自分はモノではないが、思考も感情も体も自分のもっているものである。
自分の意思で操作できる部分がある。
(ただし心臓の鼓動や細胞分裂など、意思で操作できない面の方が圧倒的に多い。)
そしてそれらは、他の人には一切操作できない。
眠いから横になる。
体のために自然なものを適度に食べる。
お酒を飲み過ぎないように適度でやめておく。
リラックスする音楽を聴く。
自分自身へのご褒美をプレゼントする。
イライラしそうな場から離れる。
体調がすぐれないので、早めに退勤して心と体を休める。
これらは自分自身の心、体、感情への管理である。
逆の行為をすれば、それは管理不行き届きであり、自分自身を壊すことになる。
これは、他人の管理はできないということでもある。
人を相手にお世話ならばできるが、管理する対象ではない。
心と体と感情は、それぞれ固有のものだからである。
学級担任が管理できるのは、子どもそのものではない。
子どもを取り巻く環境の方である。
子ども自身を管理することは、その子ども本人以外の誰にもできない。
子ども自身は、本人以外の所有物では決してないからである。
対象が機械やロボットなら管理できる。
命令に対し実行するようプログラミングされており、自在に操作できる対象である。
子育てや学級指導において、子どもをロボットにしてはならないということは、今までも方々で話してきている。
子どもを管理対象として見ているから、子どもがロボットのようになる。
「右向け右」で一斉に右を向き、「勉強しなさい」で勉強する。
こうなってしまった後、この命令を出す人がいなくなったらどうするのかである。
ロボット人間では、高性能の本物のロボットには到底勝てない。
人間がロボットに圧勝できるのは、ロボットにできない部分である。
よく命令をきく人間は、自分が困った事態になった時、思考停止でフリーズしてしまう。
あるいは、適切な命令と決定を下さない他人を責める思考になる。
学級経営における子どもへの指導とは、管理ではない。
指し導くだけで、それを選ぶかどうかは結局のところ本人次第である。
それは大人相手の場合と同じである。
極端な話、勉強をしないというのも本人の意思である。
宿題を一切やらない「のび太君」のような人間をどうするかというのが、学級経営の方針である。
全ての人間は、自由意志をもった存在であり、それは尊重されるというのが人権である。
人権は、他の人権を侵害しない範囲で最大限尊重されるものである。
人間を管理しようとすると、失敗する。
管理すべきは環境である。
集団に危害や迷惑をかける行為に対しては、集団を守る方向へ対象に働きかける。
これが環境への管理である。
その時、場合によってはその人の行動を制することもある。
罰則がないだけで、警察が交通安全を守るよう命じるのと同じである。
スピード違反も駐車違反も、周囲への危険行為、迷惑行為だから制限がかかる。
これは適切な管理対象である。
逆に言えば、他に迷惑のかからない行為に関して、制する理由はない。
怠惰な行動も奇抜なファッションも趣味も行動様式も、他人には関係ない。
それを周りがどう感じるかも、周り次第である。
ジェンダーへの捉えもそうである。
ここへの理解が広がったからこそ、今少しでも生きやすくなってきているのではないか。
個性の尊重と「普通」は両立しない。
「普通」があればそこから逸脱したものは修正すべきもの、あるいは排除対象となる。
しかしながら、大人が子どもに対し、不必要に過剰管理しがちになってしまうのはなぜなのか。
それは、大人自身が他の大人に管理されているからではないか。
管理されているのが当たり前になれば、自然そのように他人にも扱うようになる。
例えば勤め人であれば、給料も勤務時間も当然管理職の管理対象である。
これを適切に管理されることに不平を言うのはおかしい。
給料や勤務時間がおかしいのであれば、それは適切に管理できていない証拠である。
逆に、自分自身の自由意思までを管理されていたら、これはおかしな異常事態である。
どう感じるか、どう思うか、何を選択するか、何を言うかまで制限されていないか。
正しいことを正しいと言えない空気、黒を白と見ろという空気に毒されていたら、危険な兆候である。
あるいは、そうなっているのに、そうとすら感じなくなっていたら、いよいよ末期症状である。
自分がロボット化している証である。
この状態に自分がなっていると、仮に自分が子どもをロボット化していても、それに気付けない。
よい習慣化というのがある。
自分にとってよい行動をとっていても、それに全く気付かない自然な状態。
ごみを拾うのは、場をきれいにして運を拾うのと同じだから当たり前というような習慣化である。
目標に向かって何かをひたすら積み上げるのが楽しくて当たり前という状態。
子どもがレゴやパズルに熱中しているのと同じ状態であり、本人は努力とも思っていない状態。
これがよい習慣化である。
一方で、悪い習慣化もある。
自分自身へ及ぶ危険を回避するために、笑いたくないのに笑う。
怒られないよう、嫌な目に遭わないように努力する。
考えると辛いから何も考えないように決まったことを命じられるままにする。
自分自身をロボット化しないことである。
ロボット化とは、他人に自分を管理させている状態である。
それに対抗するには、自分自身を自分で管理することである。
同時に、他人を管理しないことでもある。
抽象的に聞こえるかもしれないが、学級担任には特に大切なことだと考える。
自分自身を大切にして、他者も尊重できる心の余白をもちたい。
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