2023年10月29日日曜日

働き方改革の本丸は徒労感の解消にあり

 働き方改革について。


現場教員としてのリアルな感覚を述べる。

100%主観であり全ての教員に一律に当てはまるものではないが、私という一つのモデルの示す事実でもある。


まず第一に、労働時間について。

これについては、かなり的外れな指摘や「改善」提案が多いと感じている。

教員の長い労働時間自体は、今に始まったことではない。


はっきり言えば、教員の仕事自体が辛いのではない。

やり甲斐を感じられない作業や無意味だと思える仕事が多すぎるのが辛いのだ。


法的に決められている仕事がある。

例えば出席簿等の学籍関係、あるいは指導要録や抄本などの記録関係書類の作成等である。

これらは法が改正されない限り拒否できない。

やる意義や必要性どうこうを考える前に、やるしかない。


何の見返りもリアクションもない各種アンケート類や報告書への回答。

どこぞの各担当部署から出る「ちょっとした調査」が積み重なり、湧き水がやがて大河になるが如く、雪崩のように押し寄せてくる。

(これはどちらかというと、管理職など外部との折衝が多い立場の人の方がより苦しいかもしれない。)



内容はさておき無節操に増え続ける各種年代毎の悉皆研修。

(せっかく免許更新講習がなくなったのに元の木阿弥状態である。)


ウィルスや事件・事故、あるいは「新教育」と連動して常に増え続ける「〇〇対応チェックリスト」系への記入。

最初に作って指示した人はもう既におらず、「もういいでしょう」と誰も言えない、旧制度の残滓の数々である。


当然のように過剰サービスを求められ続ける各種の「丁寧な」対応。

「教員の使命」の名のもと、「これぐらいやるのが当たり前」のレベルが高すぎる作業の数々。


それら無意味としか思えない事柄に時間を食われることが辛く、徒労感という大きな疲労に繋がっているのである。

無意味の中に意味を見出すことはもちろんできるが、それはこの問題の本質的解決にはならないどころか、真逆の方向である。

どうでもいいことをより能率よくこなせばこなすほど、より事態は悪くなっていくのである。

どこかで「NO!」をはっきりと突き付ける必要がある。


「日々の授業準備に追われている」というが、これも表現的には誤っている。

大抵の教員にとって、授業準備自体は、嫌なものでも辛いものでもなく、本来、楽しみですらある。

しかしそれを始められるのが確実に勤務時間外、日がすっかり沈んでからという現状が日夜続くことに、絶望感を抱くのである。


そして「仕方ない」「下らない」と思う、我々の手の届かない位置から降りてくる各種命令に従うほどに増す徒労感。

過剰なほどの準備・対応を命じられ、それに従う際の拭いきれない違和感。


これらあらゆる「使役」のもたらす精神的疲労感は、子どもを相手にしたり授業準備したりといった爽やかな仕事の疲れとは一線を画す。


次に話題を変えて、各種手当について。

これも完全に的外れであると感じている。


ここは手当が増えれば嬉しいだろうという単純な構造ではない。

給与自体が倍増するというような劇的な変化でない以上、大した効果は生まないどころか、逆効果にもなりかねない。

(そもそも教員を志すような人の多くが最初から強く求めているのは、そこではないはずである。)


ここについてはよく指摘されているが

「残業手当を増やすということは残業を認めるということ」

でもある。

つまり、よりよい対価を支払われるのだからもっとがんばれということにもなり得る。


私は部活動指導がないので直接関係ないが、休日に4時間以上部活動指導をすると一律3600円が支給されるという。

4時間「以上」で初めて支給され、一日中だろうが同じ「一律」の金額である。

この金額を「多い」と感じる人は少数派だろう。

ほとんどの自治体の最低賃金で定められている時給より低いレベルである。

自分が実際に毎週のように指導してみれば、その大変さがより顕著になるはずである。

そして根本的に、部活動指導は、時給換算のアルバイトでは決してない。


そこでもし「税金からきちんと支払われてるんだからもっとがんばれ」と言われたら、相当やる気をなくすのでないかと推察される。

休日を返上してまで部活動に情熱を注いでくれている(あるいは仕方なしにでもがんばってくれている)教員が主として求めているのは、そこでないことだけは確かである。


なぜこれら「奉仕的」教育活動に対して「お金で解決」が良くないのかというと、お金という存在自体がその対価として見合わないからである。

例えば、気持ちよくボランティア活動をしている人々に対し、時間や成果に応じてお金が支払われたら、かなりの違和感である。

やるせない感じと、やる気が一気に失せること必至である。

部活動指導の対価として求めているのは、そこではなく、学びや満足感、充実感など、知的な面や感情的な面の方である。

(あるいは義務感でやっている場合、きちんと休日ぐらい休ませてくれという切実な思いの方である。)


ちなみにこの考え方には、基になる参考文献がある。


世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 

近内悠太著 ニューズピックス



贈与というのは、資本主義的な交換の原理、ギブアンドテイクの原理と根本的に違う。

その考え方では、贈与という行為と折り合いがつかないのである。


この本を読むと、我々の仕事の「やりがい」と呼ばれるものの真の正体は、贈与であると考えられる。

それが将来誰にとってどう役立つのかはわからないし見届けられないが、それが後で「役に立っていた」と感じる瞬間がある。

しかも、その瞬間がいつ来るかも、あるいは来ないかもわからない。

加えて、その鍵を握っている主体は、贈与を与える側ではなく、受けとる側である。


それでも、信じて、ひたすらやる。

教員の仕事の本分は、まさにここにあるといえる。


やりがいは、それをやること自体に価値を見出しており、その対価を求めないのである。

「やりがい搾取」という言葉があるが、真のやりがいは他によって搾取されない。

なぜなら、心の底からやりたくてやっていることの場合は、周りがどんな意図であれ、絶対に他に「やらされていない」からである。

(例えば大好きなゲームやマンガに没頭している時、あるいは気の合う大好きな人と一緒にいる時、「やらされている」「読まされている」「いさせられている」と感じている人はいないだろう。)


これらの全ての事柄についてまとめると、働き方改革の本丸は、労働時間短縮や金銭の問題以上に、徒労感の解消である。

くだけた表現をすれば「どーでもいいことをしない(させない)」に尽きる。


どーでもいいことをしない主体は、働く側にある。

これは『不親切教師のススメ』で提唱している数々の事柄などが例に挙げられる。


一方で、どーでもいいことをさせない主体は、管理者など命じる側にある。

「働き方改革」で経営陣側に求められている点は、ここである。

例え本質的に「どーでもいいこと」であっても、それを命じられた側にとっては、何とかして消化するしか選択肢がないからである。


そしてこれは、学級担任から子どもに対してでも当てはまるので、一般の教員にとっても無関係ではない。

「どーでもいいこと」に服従することに慣れた子どもが、どんな大人になるかである。

働き方改革について真剣に考えることは、目の前の子どもへの教育について考えることにも繋がる。


働き方改革は、どうでもいいことではない。

現場が真剣に考え、それが本当に意味があることなのか、真実を探っていく作業である。

2023年10月22日日曜日

多様性の尊重の自己矛盾問題をどうするか

多様性の尊重について。


「多様性を認めよう」という声は、もはや世間に浸透しきり、当たり前、常識と化してきた。

ただしそれが実際に当たり前に行われているということとはまた別である。

「いじめをなくそう」「差別はいけない」といったスローガンが浸透しているのと同じである。

ただ世の中で賛成する声が多い考えになったというのがポイントである。


以前にも書いたが、これがどうしても矛盾を生む。


「多様性を認めよう」を全てに適用する場合、「多様性なぞ認めない」というような人の「多様な」意見も認めるしかない。

しかし、それを認めれば「多様性を認めよう」という正義に反する。

必ず自己矛盾に陥るのである。


全ての「○○しよう」は、正義の主張である。

つまり、○○に反する△△は、排除の対象となる。

△△派からすれば、○○も正義に反する意見である。

正義の主張は、必ず対立を生むという構造上の宿命を背負っているといえる。


「多様性を認めよう」は、一つの正義の主張である。

即ち、確実に対立を生む。


教える内容がある程度決まっている学校教育においては、特にこれが難しい。


多様性を認めるとは、例えば使用言語もバラバラでいいということだろうか。

これでは、会話自体が成立せず、カリキュラムが決まっている内容の教育は、ほぼ不可能である。


多様性を認めるとは、学校に来なくても、あるいは勉強をしなくてもいいということだろうか。

教師の言うことを全く聞かないことすらも「多様性の尊重」になる。

それでは、一切の教育が成り立たない。


多様性を認めるとは、何をしてもいいということだろうか。

それは、ルールを一切守らないことすらも認めざるを得なくなる。

そうなれば、社会としての崩壊状態である。


つまり「多様性を認める」は、全ての思想や行動を認めるという意味で受け取ると、不都合だらけになる。


また、多様性の尊重は、自由という概念と深く結びついている。

自由であるということは、自らの他によらないことであり、個々がその行動の結果責任をとる状態である。

つまり、何が起きても自分の選択の結果であり、他がどうであっても干渉しないということである。

(ここで、自分を攻撃してくる相手への抵抗をすると、またしても矛盾を生む。)


例えば、食べ物を粗末に扱う自由があってよいのか。

学校の授業中、好き勝手に寝ている自由があってよいのか。

自分がそうしたければ、他人を攻撃する自由があってよいのか。


自由や多様性の尊重を称賛する際、こういった負の面も大いに考える必要がある。


例えば、人の言うことや命令をよくきくというのは、本当に悪いことなのか。

会社のために尽くして働くというのは、本当に個人を尊重していない良くないことなのか。

何もすべきことが決まっておらず、全てが個人の自由な選択でいいというのは、本当に素晴らしいことなのか。


全面的にそうだということが難しいことだらけである。


そこで、多様性の尊重を、全ての考えに賛同することではなく、多様な存在自体を認めることとして考えてみる。

多様な存在があることを認める。

自分という存在にとって不都合、賛成できないものであっても、存在としては認める。

自然界自体、そうやって成り立っている。


そういう取り決めになったと考える。

もともと、それを認めないという取り決め(理不尽な差別)が常識だったのが、変わったと考える。

「多数派」「みんなと同じ」が絶対の正義ではないという考え方である。


そうすると、学校教育のあれこれについても、矛盾が解消できる。

何をしてもいいということと、そこに存在しているのを認められていることは、イコールではない。

あくまで、存在自体の承認である。

そう考えれば、多様性の尊重自体は、前向きに捉えられる概念となる。


多様性を認めるとは、教育の前提を引っくり返していいということではない。

あくまで多様な存在の一つとして認めるということである。

教育の前提としてやるべきことをしなくてよいという概念では決してない。


言葉は強力である。

だからこそ、言葉への単なるイメージに振り回されないようにしたい。

2023年10月14日土曜日

誰も救わない優しさに『不親切教師のススメ』

 「食事を抜いても読書は欠かさない」というぐらい、読書を大切にしている。

(単に好きなだけである。)


当たり前だが教育関連の書籍は否が応でも読む機会が多くなる。

また放っておくと、哲学的なものやドキュメンタリーなどにいきがちなので、小説も意図的に読むようにしている。


小説だと、毎年の本屋大賞の本は読む。

2023年の本屋大賞受賞作品である、次の本を読んだ。


『汝、星の如く』 凪良ゆう著 講談社


小説を読む時は、特に心に残った台詞や文章を書き留めておくようにしている。

今回は、次の言葉がメモされていた。


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愛と呪いと祈りは似ている


それは誰も救わない優しさだよ


捨てると選ぶは、意味が違うのに限りなく近い

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選んだ言葉を見返すと、共通項が見える。

自分の心の琴線に引っかかる何かがわかる。


今回のものを見ると

「真逆なようで同種」

「表面的な意味と本質的な意味が真逆」

という共通項が見える。

自分が最近感じている教育観のテーマでもある。


『不親切教師のススメ』もこれなのである。

一見親切なことが本質的には不親切。

不親切なように見えて、本質的に親切。


『不親切教師のススメ』でやめようといっている親切とは、まさにこの「誰も救わない優しさ」である。


それは「愛」なのか「呪い」なのか「祈り」なのか。

「あなたのためを思って」の本質を問いたいのである。


『捨てる!仕事術』(明治図書)という本を書いたことがある。

この本のメッセージの本質も「本当に大切なことをやるために、捨てる」である。

『不親切教師のススメ』のメッセージも、本質的には同じなのである。

不要なことをやらないという決断は、やることの主体的な選択ともいえる。


魂レベルでやりたくないこと、やるべきではないと思っていることを、仕方ないからやる。

それは、じわじわと魂を毒殺する行為である。

本当は要らない、むしろ有害だと思っているのに、「みんな」や「常識」「慣例」に合わせてやっていることはないだろうか。

そういうことへの疑問を常にもつのは、結構大切なことだと思っている。


愛、呪い、祈り。

誰も救わない優しさ。

捨てると選ぶ。


全ては、バランスである。

一見真逆なものを両立させることで、バランスがとれる。


哲学的な話になってしまったが、教育にとって本質的に大切なことである。

2023年10月8日日曜日

主張と正しさと多様性の尊重

 前回『くだらない「かけ算論争」と決断できない教育現場』という記事を書いた。

これがまぐまぐニュースになり、ドコモのニュースサイトでも紹介されていた。


くだらないようで結構、人々の興味の対象ということである。


最近はまた

「筆算で定規を使わないと×」

とか

「絶対に下敷きを使わないとダメ」

とか、何十年前にも喧々諤々の論争があったのものが、再燃して色々騒がれる。

ネットやSNSの作用である。

それら全ては「謎ルール」とラベリングされることで思考停止し批判の的になり、一緒くたに処理される。


ただ前回「くだらない」と批判した先の中心は、論争自体の方ではない。

後半の「決断できない教育現場」の在り方そのものである。


正直、どんな議論でもそうだが、どちらの立場の意見にも、それぞれ理は存在するのである。

三分の理すら存在しないということはない。


ただし、全ての「正しさ」は、場が決める。

時代や文化によっても変わる。

時の為政者が決めることもある。

それは即ち、宇宙の真理とも言えるような絶対的な正しさは存在しないとうことの裏返しでもある。


では、そんな中で、現在の日本の学校教育の指導内容の正しさは、誰が規定しているのか。

教育基本法であり、それを受けた学習指導要領であり、つまりは文部科学省が決めているのである。

そこに決断して欲しいのであるが「現場の主体性の尊重」というような言葉でうやむやにされてしまう。


では、現場が主体的に判断しよういうことでいざ決断すると、ここに批判がくる。

もっというと、裁判沙汰である。

そうなるのは嫌なので、「主体性を尊重」された現場の方も、やはりうやむやにする、ということになる。


いわゆる上から下まで全てが「入れ子構造」である。

誰も責任を取ろうとしないのだから、結局決断しようがない。

本来指導すべき内容も「どちらでもいい」となるのである。


ここに関連して、次の「みんなの教育技術」(小学館)の記事は示唆に富んでいる。


ボツになった三つの原稿 ー上司、上役の判断、決断の「気がかり」ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第59回】


以下、記事中より引用する。(メルマガの読みやすさの都合上、句点毎に改行)

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(引用開始)

「最も気がかり」なことを述べたい。

上司、上役、責任者の「判断」や「決断」が、「善」や「正義」を貫くことよりも自分の立場や責任上、現在の「平穏、無事」を保つための「保身」に傾くことである。

それは、「公」よりも「私」を重んずることである。

漱石は晩年「則天去私」の境地に到達したとされる。見事である。

(引用終了)

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「公」よりも「私」を重んじて、判断と決断ができないのは、学校だけではないようである。

そしてそのくだらなさと弱腰の姿勢を批判すべきは、「上」ではない。

それをよく考えずに甘んじて受け入れ、付和雷同している、自分自身の方である。


よく言われるたとえ話に次のものがある。

人を批判して指差す時、「人差し指」の1本のみは相手を指している。

他の「中指」「薬指」「小指」の三本は、自分自身を指している。

(私見としては「親指」だけが誰も指していないことも象徴的であると思う。)


結局、現場にいる人間がそれぞれ行動しない以上、何も変わらないということである。

命令する側からすれば、理不尽で変なことでも大人しく従ってくれているのだから、変えようと思わなくて当然である。

それは、本来正しくないことを是とすることであり、公にとっても大きな損失である。


そういう意味では、一見「くだらない」と思われる各種議論には意味がある。

しかしその場合、多様性に対して前向きな議論である必要がある。

なぜならば、「多様性を認めよう」ということは「多様性を認めない」という考え方をも包含するからである。

一見矛盾しているようだが、それが真理である。

真逆の考えは自分にとっては正しくないが、相手にとっては正しい。


「これだけが絶対正しい」という考え方は、危険である。

その前提の上で、指導する時にはとにもかくにも「正解」を示すというのが教える者の仕事だという話である。

たとえ心の中で「違う考え方も存在する」ことを認めながらも、である。


私はネットの匿名で「頭がおかしい」とまで言われたことが何度もある。

恐らく、世の常識や当たり前を問うような、はっきりとした主張をしているすべての人に、不可避の体験である。

なぜならば、記事や書籍等を通じて「私」としてはっきり「主張」しているからである。


一つの主張には、必ず反論が出る。

陰と陽はセットであり、一方の存在により他方が存在できるからである。

つまり、「そうかも」と無意識下で思っていることほど、反論せずにはいられない気にさせてしまう作用がある。

これは、先の一見矛盾する多様性の尊重の話にも通ずる。


結論、当たり前に思っていることにも、議論が必要ということである。

そして、声や権力の大きい者や世間の批判にあっさり引き下がるのではなく、自分の考える正しさを言語化して伝えること。

年齢や立場の如何を問わず、この姿勢が必要ではないかということの一つの主張である。

2023年10月1日日曜日

くだらない「かけ算論争」と決断できない教育現場

 小2で「かけ算論争」というのがある。

昔からある。

何と、半世紀近くも続いて決着しないのだという。

この「くだらなさ」に敢えてフォーカスしてみる。


例えば、次のような問題の場合である。


問:箱が3つあります。1つの箱にはみかんが5つずつ入っています。

  みかんはぜんぶで何個ありますか。


解:1箱あたり5個入りのものが3箱だから

  5×3=15 答え 15個


これで正解である。


ここの立式において「3×5」を認めよ、それが多様性の尊重だ、という議論である。

「多様性」が都合よく濫用されている昨今。

多様性の尊重とは、そういうことではない。


そもそも、この問題設定自体、どう見ても立式の意味理解を測定することを想定して作られている。

そうでなければ「みかんが5つずつ入った箱が3つあります。」という問題にしているはずである。

ちなみにこれは、演算上の「5×3=3×5」が成立するという話とは全く別の話である。

演算の話ではなく「小学校段階におけるかけ算の意味理解」を問うている問題である。


またある調査によると「8割越えの教員や塾講師」が「どちらでもよい」と回答したという。

この「適当」さに違和感しかない。

(授業で国語の学力がつかないことにも通じる。

「正解」がわからない以上、進んでいるのかぐるぐる回っているだけなのかわからない。)


ちなみに、「8割越え」の内訳を考えてみると、数のトリックに気付く。

この調査は「大手予備校」が「SNS」でたった「100人」を対象にしたアンケートである。

塾講師と小学校教員の比率も全くわからない。

(その塾の講師99人と小学校教員1人かもしれない。

もし塾の方針で「両方〇」と共通理解されていれば、当然そうなる。)

塾講師と小学校教員では、求められるものも何もかもが全く違う。


この程度の数字のトリックにほいほいとかかってしまうのが、SNSが主流の現代社会の病理である。

情報量が多すぎるせいで、よく考えずイメージで「適当」に判断する習慣が蔓延してしまっている感が否めない。


実際に、この問題を授業で扱う時、どうするか。

当然「この場合は3×5と5×3、どちらが正解か、どちらも正解といえるか」は必ず議論する。

だから、テストでは当然正解が定まる。

正解でないものは、不正解である。

事前に確認してあることであり、文句の出ようがない。


実際に見たことがないが、首尾よく授業中に見事な「3×5も正解」の説明をする子どもがいた場合はどうするか。

それは、当然真剣な比較検討の対象となる。

その上で、「どちらの式が、意味として誰に対してもすんなり伝わるか」も検討する必要がある。


なぜならば、式とは即ち「算数(数学)語」という共通言語だからである。

読んだだけで、その言語を知っている誰にでも意味がすっと伝わる必要がある。


ちなみに、2段落前に『3×5「も」正解』と表現して違和感があっただろうか。

恐らく、ないはずである。

5×3が立式として正解ということに関しては、異論・反論が出ようがないからである。

どちらがよりよい解であるかは、一目瞭然である。


そもそも、問いたいのが「立式」なのか「演算の答え」のみなのかも曖昧なのである。

だから、「答えさえ合っていればいい」という、台形の公式丸暗記みたいな話になっているのである。

ここで正答率と得点の向上を第一に求められるような立ち位置の人間であれば、「どちらでもいい」と答える可能性が高い。

小学校教員の学習指導において求められるのは、そこではないのである。


こんなものにすら半世紀も決着がつけられないとは、何ということだろう。

世間の言葉に右往左往して、代々上から下まで「決断」できない教育現場の哀れな姿が見受けられる。

それは民主的でも多様性の尊重でも何でもない。

ただ八方美人で優柔不断なだけである。


何が正解で、何が不正解か。

全てがこう割り切れるとは言わないが、少なくとも教える内容が定まっているものについては、堂々と教え、理由を語れるようでありたい。

2023年9月24日日曜日

保育士不足と働き方改革と多忙

何かと話題になる保育園や学童保育の問題。

NHKなどは継続的にこの問題をニュースにして特集している。


参考:NHK首都圏ナビ 保育現場のリアル


そこに関連して、以前からの関心事の一つ、保育士不足問題について。

これは、子どもの虐待問題にも関係する重要事である。


近年、教員に限らず、保育士も慢性的な不足状態が続いている。

保育士には元来、資格が必要である。

誰でもはできない専門職だから、資格が必要となる。

わざわざ壁を作ってまで数を絞っているところへ、ニーズがだけ急増すれば、資格保有者は不足する。

当たり前である。


では、実際の社会はどうなっているか。

保育士の数が足りず、保育園の数も足りないという事態になっている。

認可、無認可関係なく、不足である。

需要と供給の不均衡である。


そうなると、経営側的には資格が「邪魔」になってくる。

現在の法律上、「認可外」であれば、概ね3分の1以上の有資格者がいればいい。

そうなると、大部分の保育者の資格が不要となり、とりあえず数の確保ができる。


ここ数年で、認可保育園でも、「パート」が認められはじめた。

「保育補助」といって、無資格でなれる。

これで現場には、保育の無資格の人が更に増えてきた。


そうなると、実は正規職員の負担は増える。

パートタイマーを雇う場合、基本的に必ず定時で帰す義務がある。

文字通り「パートタイマー」という契約だからである。

原則、時間厳守である。


正規職員に、消化しきれない残務は全て回ってくる。

「派遣、パートの待遇の悪さ」が取り沙汰されがちでそれは一面真実だが、その分の正規職員へのしわ寄せもかなり大きい。

(恐らく、全ての業界において共通である。)


当然、「割に合わない」「〇〇しながらは、きつすぎる」という理由で、正規職員のなり手が減っていくことが予想される。

たとえ資格があっても、それがきつい仕事となれば、パートタイマーなど非正規雇用を選ぶ人も増える。

これは、教員の世界でも同様の現象が起きている。

悪循環である。


また「子どもを育てた経験があるから、保育もできるだろう」という考えは、かなり乱暴である。

それは「小学生相手の家庭教師をやっていたから、小学校で授業をしても大丈夫」というのと同程度の認識である。

やってみてどんな悲惨な結果になるかは、やった人なら知っている。

一人を一人で相手にするのと、一人で集団を相手にするのでは、必要な技能と知識が全く異なる。

あるいは、「自分も小学生だった頃があるから教えられる」「中学生の内容は難しいから無理だけど小学生なら教えられる」という暴論と同様である。


仕事が忙しい親にとっては、とにかく時間いっぱい預かってもらえることが何よりも重要なので、保育内容うんぬんは後回しになる。

内容がどうであっても、長い時間預かってくれるほど助かる。

すると、残念ながらずさんな「保育」が行われるところも出てくる。


これが、保育という重要な分野で行われている。

ぐにゃぐにゃの柔らかい状態の子どもたちへの、保育の影響の大きさは測り知れない。

(年齢による喫煙の被害の大きさの違いのようなものである。)

「入れればいい」というのは、仕事をする親の論理としてはその通りだが、その結果まで引き受ける覚悟も必要となる。


どんなに愛情をもって我が子を育てているつもりでも、ついいらいらしてしまうというのが、人間の心情である。

それが、他人の子どもを複数いっぺんに預って、簡単に育てられるはずがない。

だからこそ「保育士」という資格にも意味があるのである。

(この資格を簡単に出してしまう場合の被害の大きさも言わずもがなである。)


一方、保育士一人で複数の0歳児の保育をしている悲惨な現場を考えてみる。

そうすれば、いかなプロといえど、問題が全く起きないと考える方が難しい。

一人一人への対応も、大雑把にならざるを得ない。

物理的に見て対応する時間がないのは明白である。


更に言うと、人員不足になるほど、本来「合格ライン」に届かないはずの状態であっても、採用になってしまう。

全国の教員採用の抱える問題と同じである。


首都圏のある保育園に勤める知人に聞いた話では、0歳時が自分で哺乳瓶を持って飲めるようになるという。

あまりの数の多さに、抱っこして飲ませることができず、寝っ転がって「自分で飲むしかない」状況になるからである。

驚愕である。


そして、みんなにテレビなどを観させて、一日を過ごさせる。

スマホやタブレットを与えている時と同じで、これで「大人しく」なる。

ある「一斉保育」の現場の現状とのことである。


ここで、「何てひどい保育園だ」というのは簡単である。

問題は、抱っこしようにも、何をしようにも、人出が足りないという根本的リソース不足の方である。

そして、そんな保育園であっても、親はとにかく預けたい、預けるしかないので、預ける。


そうして育った子どもたちの次の行く先は、小学校と学童保育である。

問題が起きないはずがない。


当たり前だが、全ての保育園がこうという訳ではない。

むしろ、懸命に子どものために、健全な保育をしようとしているところが大多数だろう。

しかし、「多忙」と「無理」はすべてを壊す。

健全にやりたいのにおかしくなる保育園や、最初から金儲け主義で始める保育園が出てきても不思議ではない。


考えてみれば、「働き方改革」が進み、幼い子どもを預けて働くことが推奨されている。

そうなると、保育士の「働き方改革」はどうなるか。

これが進むほど、保育士の働き方改革は、悪化の一途を辿るという矛盾が起きる。

正規の保育士が「泥を被る」形になる。

当然、なり手は減る。


そして、その後の煽りを食うのは何よりも子ども自身であり、更には小学校現場であり、ひいては社会全体である。


結論として言いたいのは、社会に「過剰な依存」が蔓延しているということである。

自助努力で如何ともし難い現状に対し、「公」はそこまで助けてくれないというのが現実である。


人に迷惑をかけてもいいし、頼ってもいい。

しかし、誰かに頼ったとしても選択の最終責任は常に自分自身がとらねばならないということは念頭に置いておきたい。

苦しい者同士がお互いに消極的にもたれかかる「共依存」の関係では、落ちていくばかりである。

自立した者同士が積極的に支え合う「相互依存」の関係が理想である。


いずれにしろ、政府先導の働き方改革も何も、これらの問題が厳然とある以上、どこか絵空事である。

子どもを預けて働く親がより増えることへの負の面への解決策が見えない。

そしてこれら全ての根本は、日本の経済の問題であり、見えない貧困の問題なのかもしれない。


子どもを預かる全ての施設は、そういう複雑な問題の受け皿となっている。

保育園や幼稚園、学校に勤める以上、あらゆる複雑な問題は避けがたいという自覚をもって働いていく必要がある。

2023年9月16日土曜日

真理は、証明を索むべからず

 真理は、証明を索(あなぐ)むべからず。


この言葉は、次の本から見つけた言葉である。


『哲人哲語』中村天風著 天風会(1957)


真理というものは、それそういうものとして存在する。

それは、証明する必要がないものである。

この本の中では「西賢の哲」の言葉として紹介されているが、それがソクラテスなのか誰なのかはわからない。


証明しないものは納得できない、というのは、なるほど科学的立場からすると正しい。

科学はどこまでもそういう側面をもつ。


しかし、宇宙には科学で説明できないことで溢れている。

宇宙の真理が解明されるまで納得いかないからと動かずに待っていたら、あっという間に今世が終わってしまう。

その態度を貫くのであれば、自分自身の生命や存在も納得できないということになる。

生きていることの全てが「証明不可能」という真理である。

否、今生きていること自体、生命がここにあるということ自体が、証明不要の紛れもない真理である。


ここまで哲学っぽく書いてみたが、これは単なる前提のおさえである。

教育メルマガとして今回の書くべきことは

「それはそういうもの」

と素直に認識し、そのように生きていくことの大切さである。


問う必要のないものを問うことがある。

それは、何でも問えば科学的に説明できるという誤解があるからである。


例えばそのように出される問の一つが

「なぜ人を殺してはいけないか」

である。

言うなれば「サイコパス」な質問であり、何か特殊な状況でない限り疑問にすら思わない問である。


色々と理由を言えるものの、厳密に考えると答えは見つからない。

例えば「戦争時には英雄として称えられる」という面もある。

凶悪犯罪に対する死刑の場合や深い怨恨による場合など、心情的に正当化することもできる。


この問に対しては、正否どちらに対してもいくらでも後付けで理由はつけられるが、それら一切は必要ない。

人を殺してはいけないのである。

よくわからない力によって人として生まれさせてもらっただけの者。

それが同じように生まれてきた人の命を奪っていいという道理はない。


当たり前のことである。

こういう真理として決まっていることをぐちゃぐちゃとやると、訳がわからないことになる。


教育が崩れてきているのは、こういう面によるところがかなりある。

真理については本来「なんで」も証明も不要なのである。

堂々と教えればいい話なのである。


もし小さい頃に教えるのならば

「人を傷つけてはいけないよ」

だけである。


本来は、それすらも必要ないはずなのである。

生後数か月の赤ん坊ですら、困っている人を助けようとする本能があるという実験結果もある。

(この実験結果は複数の本で読んだことがあるが、どの本かはっきり言えない。

数年前に上越教育大学大学院教授の赤坂真二先生の講座でも聴いたことがある。)


この理由は、人間がどこまでも社会的な生き物だからであるという。

「助け合う」という本能は、生まれた頃から脆弱な人間にとって、集団としての生存確率を大幅に高める。

実に理に適った行動であり、色々とがんばって証明せずとも、真理なのである。


一方で、同種間の生存競争として、排他的になる面もある。(動物の世界、特にオスに顕著である。)

しかしこれも、無理なことをすれば、結局自分の首を絞めることになる。

「困っていたら放っておけない」という、集団における助け合いの精神がデフォルトで備わっているのである。

人間は、放っておいても、実に親切な生き物なのである。

(実生活だと、やりすぎてお節介にもなりがちであるが、本能行為だと思えば仕方がない面もある。)


本題に戻る。

真理は、証明を索むべからず。


つまり、教えるべきことはきちんと堂々と教えよ、ということに繋がる。

特に幼児期から低学年において、「それはそういうもの」については、徹底的に教えればよい。

どうせ何を教えても永遠に「なんで」が出るのだから、自分が上手に証明できないことを気にせずともよい。


ただせっかくの「なんで」を無下にしてもいけないので、自分で知っている小さい範囲である程度説明した後は

「何でだろうね。でもそうなんだって。」で、終結である。

証明できないものを無理に証明しなくてよいのである。(それを証明すること自体が道理に反する。)


何かしてもらったり、受け取る時には「ありがとう」を言う。

何かをしてもらう時には「お願いします」という。

誰かが困っていたら一声かける、助ける。

がんばっている人を馬鹿にしない。

誰かがものを落としたら拾って渡してあげる。


こういうことを、教える際に躊躇しない。

小学生でも「なんで?」ときかれたら、「その方が嬉しいから」くらいでいい。

明確な理由や証明は不要である。


逆を言えば、真理でないことに無思考に従う態度は排すべきである。

おかしいことはおかしいと言えねば、人間としての甲斐がない。

そのあたりは『不親切教師のススメ』で詳しく述べているので参照されたい。


真理は、証明を策むべからず。

心に留めておきたい名句である。

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