2023年9月24日日曜日

保育士不足と働き方改革と多忙

何かと話題になる保育園や学童保育の問題。

NHKなどは継続的にこの問題をニュースにして特集している。


参考:NHK首都圏ナビ 保育現場のリアル


そこに関連して、以前からの関心事の一つ、保育士不足問題について。

これは、子どもの虐待問題にも関係する重要事である。


近年、教員に限らず、保育士も慢性的な不足状態が続いている。

保育士には元来、資格が必要である。

誰でもはできない専門職だから、資格が必要となる。

わざわざ壁を作ってまで数を絞っているところへ、ニーズがだけ急増すれば、資格保有者は不足する。

当たり前である。


では、実際の社会はどうなっているか。

保育士の数が足りず、保育園の数も足りないという事態になっている。

認可、無認可関係なく、不足である。

需要と供給の不均衡である。


そうなると、経営側的には資格が「邪魔」になってくる。

現在の法律上、「認可外」であれば、概ね3分の1以上の有資格者がいればいい。

そうなると、大部分の保育者の資格が不要となり、とりあえず数の確保ができる。


ここ数年で、認可保育園でも、「パート」が認められはじめた。

「保育補助」といって、無資格でなれる。

これで現場には、保育の無資格の人が更に増えてきた。


そうなると、実は正規職員の負担は増える。

パートタイマーを雇う場合、基本的に必ず定時で帰す義務がある。

文字通り「パートタイマー」という契約だからである。

原則、時間厳守である。


正規職員に、消化しきれない残務は全て回ってくる。

「派遣、パートの待遇の悪さ」が取り沙汰されがちでそれは一面真実だが、その分の正規職員へのしわ寄せもかなり大きい。

(恐らく、全ての業界において共通である。)


当然、「割に合わない」「〇〇しながらは、きつすぎる」という理由で、正規職員のなり手が減っていくことが予想される。

たとえ資格があっても、それがきつい仕事となれば、パートタイマーなど非正規雇用を選ぶ人も増える。

これは、教員の世界でも同様の現象が起きている。

悪循環である。


また「子どもを育てた経験があるから、保育もできるだろう」という考えは、かなり乱暴である。

それは「小学生相手の家庭教師をやっていたから、小学校で授業をしても大丈夫」というのと同程度の認識である。

やってみてどんな悲惨な結果になるかは、やった人なら知っている。

一人を一人で相手にするのと、一人で集団を相手にするのでは、必要な技能と知識が全く異なる。

あるいは、「自分も小学生だった頃があるから教えられる」「中学生の内容は難しいから無理だけど小学生なら教えられる」という暴論と同様である。


仕事が忙しい親にとっては、とにかく時間いっぱい預かってもらえることが何よりも重要なので、保育内容うんぬんは後回しになる。

内容がどうであっても、長い時間預かってくれるほど助かる。

すると、残念ながらずさんな「保育」が行われるところも出てくる。


これが、保育という重要な分野で行われている。

ぐにゃぐにゃの柔らかい状態の子どもたちへの、保育の影響の大きさは測り知れない。

(年齢による喫煙の被害の大きさの違いのようなものである。)

「入れればいい」というのは、仕事をする親の論理としてはその通りだが、その結果まで引き受ける覚悟も必要となる。


どんなに愛情をもって我が子を育てているつもりでも、ついいらいらしてしまうというのが、人間の心情である。

それが、他人の子どもを複数いっぺんに預って、簡単に育てられるはずがない。

だからこそ「保育士」という資格にも意味があるのである。

(この資格を簡単に出してしまう場合の被害の大きさも言わずもがなである。)


一方、保育士一人で複数の0歳児の保育をしている悲惨な現場を考えてみる。

そうすれば、いかなプロといえど、問題が全く起きないと考える方が難しい。

一人一人への対応も、大雑把にならざるを得ない。

物理的に見て対応する時間がないのは明白である。


更に言うと、人員不足になるほど、本来「合格ライン」に届かないはずの状態であっても、採用になってしまう。

全国の教員採用の抱える問題と同じである。


首都圏のある保育園に勤める知人に聞いた話では、0歳時が自分で哺乳瓶を持って飲めるようになるという。

あまりの数の多さに、抱っこして飲ませることができず、寝っ転がって「自分で飲むしかない」状況になるからである。

驚愕である。


そして、みんなにテレビなどを観させて、一日を過ごさせる。

スマホやタブレットを与えている時と同じで、これで「大人しく」なる。

ある「一斉保育」の現場の現状とのことである。


ここで、「何てひどい保育園だ」というのは簡単である。

問題は、抱っこしようにも、何をしようにも、人出が足りないという根本的リソース不足の方である。

そして、そんな保育園であっても、親はとにかく預けたい、預けるしかないので、預ける。


そうして育った子どもたちの次の行く先は、小学校と学童保育である。

問題が起きないはずがない。


当たり前だが、全ての保育園がこうという訳ではない。

むしろ、懸命に子どものために、健全な保育をしようとしているところが大多数だろう。

しかし、「多忙」と「無理」はすべてを壊す。

健全にやりたいのにおかしくなる保育園や、最初から金儲け主義で始める保育園が出てきても不思議ではない。


考えてみれば、「働き方改革」が進み、幼い子どもを預けて働くことが推奨されている。

そうなると、保育士の「働き方改革」はどうなるか。

これが進むほど、保育士の働き方改革は、悪化の一途を辿るという矛盾が起きる。

正規の保育士が「泥を被る」形になる。

当然、なり手は減る。


そして、その後の煽りを食うのは何よりも子ども自身であり、更には小学校現場であり、ひいては社会全体である。


結論として言いたいのは、社会に「過剰な依存」が蔓延しているということである。

自助努力で如何ともし難い現状に対し、「公」はそこまで助けてくれないというのが現実である。


人に迷惑をかけてもいいし、頼ってもいい。

しかし、誰かに頼ったとしても選択の最終責任は常に自分自身がとらねばならないということは念頭に置いておきたい。

苦しい者同士がお互いに消極的にもたれかかる「共依存」の関係では、落ちていくばかりである。

自立した者同士が積極的に支え合う「相互依存」の関係が理想である。


いずれにしろ、政府先導の働き方改革も何も、これらの問題が厳然とある以上、どこか絵空事である。

子どもを預けて働く親がより増えることへの負の面への解決策が見えない。

そしてこれら全ての根本は、日本の経済の問題であり、見えない貧困の問題なのかもしれない。


子どもを預かる全ての施設は、そういう複雑な問題の受け皿となっている。

保育園や幼稚園、学校に勤める以上、あらゆる複雑な問題は避けがたいという自覚をもって働いていく必要がある。

2023年9月16日土曜日

真理は、証明を索むべからず

 真理は、証明を索(あなぐ)むべからず。


この言葉は、次の本から見つけた言葉である。


『哲人哲語』中村天風著 天風会(1957)


真理というものは、それそういうものとして存在する。

それは、証明する必要がないものである。

この本の中では「西賢の哲」の言葉として紹介されているが、それがソクラテスなのか誰なのかはわからない。


証明しないものは納得できない、というのは、なるほど科学的立場からすると正しい。

科学はどこまでもそういう側面をもつ。


しかし、宇宙には科学で説明できないことで溢れている。

宇宙の真理が解明されるまで納得いかないからと動かずに待っていたら、あっという間に今世が終わってしまう。

その態度を貫くのであれば、自分自身の生命や存在も納得できないということになる。

生きていることの全てが「証明不可能」という真理である。

否、今生きていること自体、生命がここにあるということ自体が、証明不要の紛れもない真理である。


ここまで哲学っぽく書いてみたが、これは単なる前提のおさえである。

教育メルマガとして今回の書くべきことは

「それはそういうもの」

と素直に認識し、そのように生きていくことの大切さである。


問う必要のないものを問うことがある。

それは、何でも問えば科学的に説明できるという誤解があるからである。


例えばそのように出される問の一つが

「なぜ人を殺してはいけないか」

である。

言うなれば「サイコパス」な質問であり、何か特殊な状況でない限り疑問にすら思わない問である。


色々と理由を言えるものの、厳密に考えると答えは見つからない。

例えば「戦争時には英雄として称えられる」という面もある。

凶悪犯罪に対する死刑の場合や深い怨恨による場合など、心情的に正当化することもできる。


この問に対しては、正否どちらに対してもいくらでも後付けで理由はつけられるが、それら一切は必要ない。

人を殺してはいけないのである。

よくわからない力によって人として生まれさせてもらっただけの者。

それが同じように生まれてきた人の命を奪っていいという道理はない。


当たり前のことである。

こういう真理として決まっていることをぐちゃぐちゃとやると、訳がわからないことになる。


教育が崩れてきているのは、こういう面によるところがかなりある。

真理については本来「なんで」も証明も不要なのである。

堂々と教えればいい話なのである。


もし小さい頃に教えるのならば

「人を傷つけてはいけないよ」

だけである。


本来は、それすらも必要ないはずなのである。

生後数か月の赤ん坊ですら、困っている人を助けようとする本能があるという実験結果もある。

(この実験結果は複数の本で読んだことがあるが、どの本かはっきり言えない。

数年前に上越教育大学大学院教授の赤坂真二先生の講座でも聴いたことがある。)


この理由は、人間がどこまでも社会的な生き物だからであるという。

「助け合う」という本能は、生まれた頃から脆弱な人間にとって、集団としての生存確率を大幅に高める。

実に理に適った行動であり、色々とがんばって証明せずとも、真理なのである。


一方で、同種間の生存競争として、排他的になる面もある。(動物の世界、特にオスに顕著である。)

しかしこれも、無理なことをすれば、結局自分の首を絞めることになる。

「困っていたら放っておけない」という、集団における助け合いの精神がデフォルトで備わっているのである。

人間は、放っておいても、実に親切な生き物なのである。

(実生活だと、やりすぎてお節介にもなりがちであるが、本能行為だと思えば仕方がない面もある。)


本題に戻る。

真理は、証明を索むべからず。


つまり、教えるべきことはきちんと堂々と教えよ、ということに繋がる。

特に幼児期から低学年において、「それはそういうもの」については、徹底的に教えればよい。

どうせ何を教えても永遠に「なんで」が出るのだから、自分が上手に証明できないことを気にせずともよい。


ただせっかくの「なんで」を無下にしてもいけないので、自分で知っている小さい範囲である程度説明した後は

「何でだろうね。でもそうなんだって。」で、終結である。

証明できないものを無理に証明しなくてよいのである。(それを証明すること自体が道理に反する。)


何かしてもらったり、受け取る時には「ありがとう」を言う。

何かをしてもらう時には「お願いします」という。

誰かが困っていたら一声かける、助ける。

がんばっている人を馬鹿にしない。

誰かがものを落としたら拾って渡してあげる。


こういうことを、教える際に躊躇しない。

小学生でも「なんで?」ときかれたら、「その方が嬉しいから」くらいでいい。

明確な理由や証明は不要である。


逆を言えば、真理でないことに無思考に従う態度は排すべきである。

おかしいことはおかしいと言えねば、人間としての甲斐がない。

そのあたりは『不親切教師のススメ』で詳しく述べているので参照されたい。


真理は、証明を策むべからず。

心に留めておきたい名句である。

2023年9月10日日曜日

話を聞かないをどうするか

 学級経営に関する悩みと、それをどう考えるかについて。


学級経営に関する悩みで最も多く寄せられるものは「話を聞かない」。

これである。


だから、新刊はここに絞って書いた。

学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』学陽書房


専科などで入る先生もこれで悩むことが結構ある。

学級経営の問題なのか授業技量の問題なのかは断定できない。

しかしながら、専科の時だけきかないとしても、それはそれで学級経営が上手くいっているとは言い難い。


子どもを教える際の大前提がある。

そもそも、子どもというより、人は人の話を聞かないものである。

幼児に近い年齢の子どもなら尚更である。


35人学級で全員きちんと話を聞いている低学年の集団なぞ、想像するだけで恐ろしい。

基本的に「自分だけの世界」というのが標準レベルである。

だからこそ、この時期の指導が重要になるともいえる。


高学年以降になると、意図的に話を聞かないということも起きる。

相手によって態度を変えるためである。

これは「望ましくない」といえるかもしれないが、自立への成長の過程としては必要な時期でもある。

ある意味、主体的に選択している態度ともいえる。(その結果責任まで考えているかどうかは別問題である。)


いずれにせよ、こちらの話は普通にしていたら聞いてもらえると思わない方が健全である。

八方手を尽くして、やっと少し聞くかもしれない、程度である。


長い話はまずダメである。

長くなると、そもそも理解ができない。

集中力も続かない。


つまらない話もダメである。

聞いていても無駄で、聞かない方が得してしまうようなものもダメである。


さて、ダメなことばかり挙げても絶望的になるだけなので、大切なのは、どうするかである。


王道は、少数の優秀な聞き手を育てることからである。

絶対に、一生懸命聞いている子どもがいる。

そこを認め、そこに向かって話す。

一点、風穴を開ければ、そこから打開できる可能性が高まる。


すると、良い聞き手を真似をする子どもが出る。

集団は、認められる方に引っ張られるからである。

逆に、聞かない子どもを叱責したり注目したり丁寧に接してあげたりしていれば、集団もそちらに引っ張られる。

叱責行為も注目行為も「見てとめる」=「認める」の一種である。


全員がしっかりと聞けるようになることは望むべくもない。

そんな集団は大人でもまず見ない。

そもそも耳からの情報が苦手な人間は一定数存在する。

視覚情報を合わせながら話すことも有効であるし、困ったら近くの人に頼るように指導していくことも手である。


それでも、わざと話を遮って騒ぐ子どももいる。

この場合は、注目お試し行動である。

自分でどうしていいかわからずコントロール不全のパニックを起こしていることもある。

ここはその子どものためも含めて、無言の対応や意図的無視を状況に応じて使う。(事前にその説明もしておくのが望ましい。)

大抵の場合、騒ぐ子どもは自信ありげに見えて実は自己肯定感がどん底なので、その裏で「あなたは大切」「価値がある」を伝え続けることが更に重要である。


とにかく基本は、美点凝視、真剣な良い聞き手に注目して話すことに集中することである。


要は、全ての人が、自分を認められたいのである。

良い行動で認めれば、良い方向に伸びる。

悪い行動で認めれば、悪い方向に伸びてしまう。

そして指導者の立場は、その強い実行力をもっているという自覚が必要である。


話を聞かないという悩みは、教育に関わる人にとって永遠の課題である。

2023年8月27日日曜日

夏休みの研修をどう生かすか

 夏は研修やセミナーが盛んである。

多業種、各方面で開催されるが、特に教員関係のものは多い。

夏休みに子どもがいない間は、主に研修期間という位置付けだからである。


これは、教員にとっての夏休みの楽しみ方の一つともいえる。

社会科の大家、元筑波大附属小教諭の有田和正先生は、旅行も兼ねてネタ集めに奔走していたという。

数々の素晴らしい授業実践群は、これら休日を含めた日々の研鑽の賜物である。

やり方次第で、旅行すら立派に研修になりうる。


そんな中、セミナーは傍目にもわかりやすい研修の機会である。

わざわざ休日に身銭を切って時間を使ってまで学ぼうというのはコストが高く、並々ならぬモチベーションである。

特に遠方まで行ってお金を払って学ぶような人は、少なくとも「普通」ではない。


コストをかける分、期待が高まる。

時に、相手が、自分の望む答えをもっているように感じてしまう。

悩んでいるほど「どうやるのが正解か」と他者にききたくなる。


ただこの姿勢だと、なかなかうまくいかない。

うまくいかなくても、変われなくても、相手次第だからである。

実は、どんな研修やセミナーであっても、学び手次第というところがかなりある。

この夏の新刊『学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』にも書いたが、受け取る主体は常に「聞き手」にあるからである。


特に「有名講師」と言われる人に学ぶ時は、消化の仕方が肝である。

相手の実績があるだけに、それを真似すればうまくいく気がしてしまう。


実際、やってみるとわかるが、そううまくはいかない。

「変わるぞ!」と熱く燃えて決意したにも関わらず、続かない。

それは、そもそも相手と自分のもつストーリー、文脈が違うからである。


物語に例えると

「普通の暮らしをしていた若者がひょんなことから事件に巻き込まれ、苦労の果てに成功する」

というタイプのストーリーと、

「生まれながらの王族が、内政の困難に立ち向かいながら更なる成功を手にしていく」

というストーリー。

両者の成功譚は全く別物である。

主人公のもつ、そもそものベースも環境も全く違うからである。


様々な地へ行くとわかるが、学校の抱える課題も地域で全く違う。

先日の調査結果を受けて「学力向上」が主な課題になっている地域がある。

一方で、所変われば、「貧困」が問題になっている地域もあれば、「同和問題」が筆頭に来ている地域もある。

私学と公立でも違う。

どこでも同じ手法が同じように通用する土台がないのである。


その研修やセミナーから学んだことを、自分なりにどう解釈して用いるかが全てである。

正解は自分で作る。

学んだ内容とは全く逆の正解を作ることもあり得る。


「この道でみんな成功してますよ」

という話を聞いて、

「それならもうこの道を行っても自分にはチャンスがないから、これ以外を行こう」

と考えるのも自分次第である。


いずれにしろ、経験は意図的に積み、そこに整理を加えないといけない。

これは、師の野口芳宏先生が事あるごとに口にされている教訓である。


せっかくこの夏に学んだ内容、自分なりに主体的に活用していきたい。

2023年8月19日土曜日

発信者には先行実践の調査と明示が必須

 私が長らく、学級経営において大切にしている大原則がある。


真面目な人に損をさせない。

一生懸命がんばる上位2割にこそ注目する。


これらの考えが結構広まってきたようである。

見ると、私以外の誰かも

「真面目な子に損をさせないことが大切です」

と断言して書いている様子を見受ける。


さて、これらのことを書いたり発信する時には、ルールがある。

それは「引用元の明示」である。

論文、書籍、メルマガ、SNS、媒体を問わず「引用元の明示」は、発信の大原則である。


「それは元々誰の話なのか」をはっきりさせるのが、文章を書く上での大原則のルールである。

「自分が思いついた」と思った場合でも、関係する文献、あるいはせめてネットで先行実践を調べてから発信するのが最低限度のモラルである。

そう思ったほとんどの場合、以前に自分が見聞きした文章の記憶からの着想(あるいはそのまま)だからである。


これは自戒の念も込めており、私自身の文章にも当てはまることである。


例えば、『不親切教師のススメ』は新しいことを書いているように思える。

自分でも、色々と考えて書いたつもりである。

しかし実際には、かなり様々な人々の思想に影響を受けている。

思い出せるものはなるべく調べて明記したつもりであった。

しかし、それでも甘いのである。


例えば、この本の参考文献に載せるべきだったと後悔している本がある。

『不親切教師のススメ』と同じく、さくら社刊行の、次の本である。


学級づくりの教科書』有田和正著 さくら社


この本の「教育的良心が足りない」?という項p.154に次のように書かれている。

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(引用開始)

手とり足とりの指導が、子どもにとってよいのであろうか。

わたしは、子どものために尽くすということは、手とり足とりの指導ではなく、ひと言少ないことや、一手少ない指導だと考えている。子ども一人ひとりを主体的に育てることが教育の目的なら、指導過剰はマイナス効果である。

(中略 )

子どもが困っていると、すぐ手を出したくなる。そこをがまんすることが、本当に子どものためになるのである。

(引用終了)

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本に力強く「花丸」の書き込みまで付けてある。

『不親切教師のススメ』は、ここから相当に影響を受けていると考えて間違いない。


2011.8.25発刊で、発売直後に初版を購入してまず一気に最後まで読んだ記憶がある。

表層からは内容についての細かな記憶は薄れていたが、深層で完全に覚えていたようである。

有田実践については『不親切教師のススメ』にも宿題の項でふれたが、今思えば主要な参考文献としてこの本を載せるべきだった。

もう間に合わないため、せめてここの場に明記し、次回作では明言しようと思う。


ちなみに冒頭に挙げた「上位2割に注目」は、イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートの「パレートの法則」からの気付きである。

セットで「下位2割に引っ張られない」という点もここから着想し、提案している。

学級崩壊とは、下位2割が言うことを聞かない状態ではなく、上位2割にそっぽを向かれた状態を指すからである。


この「学級崩壊とは・・・」という考え方のベースは、TOSS代表の向山洋一氏のものである。

また「下位に注目しない」というのは、特別支援教育で用いられる「意図的無視」という配慮からきている。

そしてのその考えのベースは、心理学におけるオペラント条件付けの「負の強化」というものからである。


つまり、どれもこれも私の完全オリジナルな訳ではない。

他の研究や実践から着想を思い切り得ている。

その学びを消化した上で、実践を通して実感したものを言語化しただけである。

私の「真面目な人に損をさせない」という学級経営の大原則も、この「上位2割」の概念から派生した考えである。


そう考えると、「自分の完全オリジナルな考え」などというものは、ほとんど存在しないのかもしれないとも思う。

師の野口芳宏先生もそのように仰っていた。

全ての原理原則は、孔子やキリスト、釈迦あたりに言い尽くされており、先人がどこかしらで主張しているものばかりである。


だからこそ、発信者はそこに対し、謙虚になる必要がある。

誰でも何でも発信できる現代にこそ、個々の情報モラルや情報リテラシーが重要になる。

自分の考えはどれで、引用・参考文献はどれなのか、明示する必要がある。

(ちなみに引用と参考は全く違う。引用は元のそのまま、参考はあくまで参考である。

これも、初任の頃に向山洋一氏の書籍から学んだことである。)


情報を得る場合も、それがどこの誰なのか、名前や立場を明示して発信しているのかどうかが最も大切である。

当たり前だが、世に知られた人が立場をもってする発信は、そうでない人に比べて、断然責任が重い。

政治家や有名人が批判されるのは、そういう意味で避けられない必然である。


そして批判一つとっても、批判者側が名前や立場を明示してこそ責任と価値が伴うのである。

匿名の無責任な文章には、宙を漂うような重さしかないのである。


情報を得る側も、そういう視点で見ないと、色々と見誤り、誤ったものが世に広まる。

ニュースに悪い情報の方が多く飛び交うのは、それを無意識に歓迎する読者が多くいるからこそである。


SNS上や書籍上の有象無象の教育情報に、気になるものが増えてきたので、記しておいた。

もしも私の文章に対しても、考えに共感して広めたいという有難い意向がある方は、引用元を明示するか、ご一報を頂ければ幸いである。

2023年8月12日土曜日

音読が大切

今更ながらだが、音読の大切さについて。


最近、サークルでも校内研修でも話題になったのが、音読の重要性である。

特に国語を専門とする先生から、その重要性について、以下に書くように強調された。


そもそも、人間の言語獲得のプロセスは音声を聞き、それを口に出すことからである。

いきなり書き文字から入る訳ではない。

言語獲得のプロセスにおいて、音声言語が文字言語に優先するのである。


音読をすると、理解度がはっきりとわかる。

国語で教科書の文章をすらすら読めるような力を育てることが、他教科へ波及する。


例えば、算数の問題が解けない子どもに問題文を声に出して読ませようとすると、それ自体が読めない。


「読めない」の内訳は様々である。

・漢字が読めない

・その言葉自体を知らなくて読めない

・記号が読めない


特に、漢字が少なく平仮名交じりの文の多い低学年では、その言葉自体がわからないことが多い。

(低学年の教科書の混ぜ書き文章は、大人からしても読みにくい。)


またグラフなど「読み取る」という作業が入ることも多く、ここも音読させると理解度がわかる。


2年生の「時刻と時間」の学習などは最もわかりやすい。

時計を見て「9時」と読むところを「12時」と平気で読むなんてざらである。

短針が「〇時」→長針が「〇分」の順に読むこともわかっていないから、読みようがない。

時刻自体が読めないのだから、時間を問う問題ができなくて当然である。


そして「読めない」状態のままテストになれば、当然問題文が自力で読めない。

何を問われているかわからないのだから、解けなくて当然である。

つまり、内容への理解度どうこう以前の問題が存在しているのである。


普段から自力で問題文を読むという習慣が必要なのである。

授業中も、声に出して問題文を読ませる必然性がそこにある。


5年前、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井 紀子著 東洋経済新報社)という本が話題になった。

タイトルを見て「そんな大袈裟な」「そういう子どもも中にはいる」ぐらいに思った人が多くいたと思うが、これは事実である。

調査をするとわかるが、かなりの割合の子どもが、きちんと教科書を読めない。

そして、その状態でそのまま大人になっているのである。


これは学校側としてはお便り一つ配るにも「本当に読めるかどうか」という視点が必要ということである。

問い合わせに対し「お便りに書いた」というのはこちらの言い分としては正しい。

しかしながら、あの大量の文字情報から本当に必要な情報を読み取るということを誰しもできるか、自問する必要がある。

(むしろ、発行している自分たちですら読むのが大変なのではないだろうか。

例えばどの学校であっても、新入生の保護者向けの説明資料などは、文字地獄である。)


話を戻すと、小学校、特に低学年段階において、音読の重要性は強調しすぎることはない。

高学年でも重要であるが、それも低学年での基礎固めがあった上で成り立つものである。


大人同士の読書会でも、音読を行う。

上手な人によって全力で読まれる文章の音声を聞くのは、耳にも大変心地良いものである。

自分自身の音読の向上にもつながる。

即ち、それが子どもの音読の向上にもつながる。


音読向上につながる実践は、数多くある。


例えば長らく「詩文の暗唱」の実践をしていた。

しかしコロナの影響で近距離で音読を聞くことができず、最近めっきりやめてしまっていた。

こちらも、再開する方向である。

確実に語彙力とリズム感が身に付き、子どもの学力向上につながる。

(先日講師として訪問させていただいた都内の学校では、校長先生が全校児童の詩文暗唱を聞いて認定していた。

素晴らしい取り組みであると思う。)


AI全盛の時代になろうと、この点は変わらない。

言語能力の獲得は必須である。

文字情報を読めないのでは、情報獲得の量に圧倒的な差がつくのは必然だからである。


今、新しい様々な取り組みがどんどん生まれている。

しかしながら、温故知新の言葉の通り、古くから残ってきたものには価値がある。

しばらく、感染症対策によって歌や音読が禁止されてきたが、その束縛もこの5月で完全に終わりである。

音読の重要性が、今こそ見直されるべきではないかと考える次第である。

2023年8月5日土曜日

夏休みの宿題とChat gpt

 夏休みの読書感想文等宿題に関して、文科省よりChat gpt使用についての見解が出された。

それ以前に、Chat gptは13歳以下だとそもそも使用できず、18歳未満には保護者の許可が必要というルールがある。

以前にも書いた通りで、人間は「ダメ」と言ったら止めるものでもないというのが現実である。

メルカリ等に夏休みの宿題代行業者が氾濫して大儲けした現状を見れば明らかである。


さて、この活用は読書感想文コンクールに限らない。

例えば、夏休みの自由研究にも利用できる。

大人の権限でちょっとChat gptに命令して、ものの数分でアウトラインを出してもらった。

以下、Chat gptの出してくれたアイデアである。


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タイトル:浮力の不思議

はじめに

浮力の不思議についてみんなに紹介します。みんなが水に入ると浮くこと、それは浮力という不思議な力が働いているんだよ!この研究では、浮力の仕組みを楽しく学んでみよう!


浮力とは

浮力って何だろう?実験を通じて浮力の不思議な力を見つけ出そう!水に入る物体がどうして浮くのか、どうして沈むのかを調べてみよう。アーキメデスの原理という言葉も覚えようね。


実験1:異なる物体の浮力を比較

いろんな物体を水に浮かべてみよう!例えば、おもちゃや果物、コインなど。それぞれの物体が水に浮く理由を考えながら、不思議な現象を観察しよう。もしかしたら、大きさや形が浮力に影響を与えるかもしれないね!


実験2:浮力と重力のバランス

水に浮かべた物体には浮力が働いているけれど、重力という力もあるんだ。水に浮かべた物体の重さを計って、浮力と重力のバランスを確かめてみよう。ちょっと難しそうだけど、一緒に考えよう!


実験3:船の浮力の原理

船は大きな物体だけれど、なぜ浮くのかな?紙船やアルミホイル船を作って、水に浮かべてみよう。どんな形の船が一番浮きやすいかな?不思議な船の浮力の原理を見つけよう!


実験4:浮力を利用した物体の設計

浮力って素晴らしい力だね!実験を通じて浮力を利用した物体や構造物の設計を考えてみよう。例えば、浮き輪や船、水中のおもちゃなどを自分で考えて作ってみよう!どんな物体が浮力を最大限に使えるかな?


結果と考察

実験の結果をまとめよう!浮力の不思議な力を見つけたり、物体の形や大きさが浮力に与える影響を考えたりしたね。浮力の大切さや日常生活での活用方法についても考えてみよう。


まとめ

浮力の不思議を調べて、たくさん学びましたね!水に浮く現象や物体の設計など、楽しいことがたくさんありました。浮力の力って、みんなの生活にも意外と関係しているんだよ!これからも科学の不思議を追求していこうね!


参考文献

浮力に関する本やウェブサイトのリストを紹介します。これらの情報源からもっと面白いことを学びましょう!


付録

実験の写真や図、興味深い発見のメモなどをまとめた付録を用意しました。楽しい研究の記録を残しましょう!

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何をしたらいいかわからない子どもにとって、これはかなり助けになる。

(そもそもインターネットサイトの存在自体が、相当な手助けになるが。)

このアウトラインに従って実際に実験してみれば、面白そうである。


またそれぞれの項目について「書いて」と言えばここもある程度までは書いてくれる。

子どもが使用禁止だとしても、夏休みの自由研究は実質親の宿題という面もある。

どうしていいかわからない親が手助けのために使うことは十分に有り得る。


明確に「不正」と明言されている点については、使用できない。

しかし時に、設定されたルールの側がおかしいということも考えるべき点である。

ルール設定者(権力者)の都合や好みという面がないかは、常に疑うべきところである。


スポーツの世界はこれが顕著である。

オリンピックの歴史でも、日本が活躍して金メダルをとるとルールが変わるということは度々起きている。

(オリンピックはもはや爽やかなスポーツの祭典とは言い難い、醜悪な面が方々に見えてしまい、残念なことである。)

工夫した側の努力を否定するように、あっさりとルール変更がなされる。


Chat gptをフル活用できるリテラシーのある教員や大人はどれぐらいいるのだろうか。

実際、子どもの方はどうなのだろうか。

良い道具がある時にそれを活用する能力は、旧い制度を守るより大切である。


学校は、新しいものを活用する姿勢が必要である。

そのためには、古いものを捨てる必要がある。

旧態依然とした学び方やその学習内容を抱えたままでは、それができない。


学習指導要領がある以上、内容についての変更はできないが、工夫はできる。

昭和の時代から変わらないのではなく、今の時代に合った形の夏休みの宿題というものを考えてもよいはずである。


自由研究等そのものを否定している訳ではない。

本当に「研究」して大発見をしてしまうすごい子どもたちが存在することも認めている。

だからこそ、課題へ取り組むかどうかも個人の選択にして、使える道具はフル活用していいのではないかということである。


学校教育の実際は、基本的に保守である。

そして「新しいものは怖い」という感覚は「古いものをそのままにしたい」という感情と裏表である。

(ただ一番悪いのは、古いものを抱えたまま新しいものをどんどん取り入れることである。

 それでは、クローゼットがパンパンになって、着られる服もダメになる。

 新しく買うなら古いものを捨てるのが鉄則である。)


せっかく手助けしてくれるものは使った方がよい。

また新しい時代の価値観の流れは、拒否するだけ無駄である。

それを取り入れていくしかない。

だから、古いものを捨てるしかない。


この令和の新時代に、昭和時代の夏休みの宿題が「そのまま」残っていることの方がおかしい。

生成AIを読書感想文に使うなどうこう以前に、学校の在り方のおかしさの方が気になって仕方ない昨今である。

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