2023年3月25日土曜日

強制・矯正ベースから選択・個性ベースへ

 昨年実施したセミナーにおいて「各場面で強制、矯正をするか」という問いかけを行った。


例えば、給食の残菜が多すぎるという状況。

現在、無理矢理に食べさせることは、まずしない。

会場も満場一致で「そこは個人の選択」ということであった。


しかし恐らく、30年前に同じ問いかけをしたら、ほぼ満場一致で逆の結果になったのではないだろうか。


つまり、時代に応じて「最適解」は変わる。

一昔前の「正解」は今や「大間違い」ということはかなりある。


わかりやすい例で言えば、戦後間もない頃と、現在の食糧事情が同じはずがない。

そうなれば、食への指導のありようは全く違うものとなる。

(戦後間もない頃には、全てを底までさらっていくので、そもそも残菜自体が出ないから指導対象ですらない。)


時代は、強制・矯正ベースから、選択・個性ベースへとシフトしている。


一昔前は、学校教育の多くを占めるのが強制・矯正だった。

選択・個性に対応したものの存在割合は少なかったはずである。


現代はその比率が逆転している。

教育の中に、強制・矯正を求めるものはもちろんある。

しかし、選択・個性への対応の比率が多くを占める。


つまり、どちらも全くないという訳ではない。

どちらも存在するのだが、ベースとなるものが変わったというだけである。


選択・個性ベースの現代では、強制・矯正を発揮すべき場面は少ない。

そもそも学校では罰せられることもないため、求めに従うか否かも個々の選択である。


不親切教師のススメ』では、子ども自身の自己決定を重視している。

何でも他人や上に決めてもらった方が楽なのだが、それを是としない。

可能な限りの自己決定を求める。


一方で、教室で起きたことの一切の責任は教師にある。

子どもが自己決定をしたことであっても、そうである。

子どもに「自分で責任をもって」と指導することはあっても、実際に子どもの「自己責任」となることはない。

教室という空間における一切は、教師の責任監督下である。


だからこそ、子どもには自らの行動に責任をもつという意識を求める。

どうせ実際に何かあったら、こちらの責任なのである。

せめて意識ぐらいしてもらわねば、勝手にやりたい放題やって、その失敗の責めだけを負うことになる。


ここは、子どもとの取引である。

教師の側は、教室における一切の権限を握っているからこそ、その全責任も負うという前提がある。

この権限を一部、相手に譲渡することができるが、その結果責任だけはこちらに残る。


つまりそれは、子どもに対し信用ができる時に限られる。

単に気持ちの上でこちらが勝手に行う信頼ではない。

権限を委譲する以上、約束の不履行をしないという信用である。


誰しも、なるべくなら、強制をしたくないと思っている。

一方で、強制しないと自分あるいは集団に不都合が生じる状態であれば、強制・矯正せざるを得ない。

それは、幼児に自由に街中を出歩かせないことと同じである。

交通ルールを守れるという前提ができるまで、そこへの選択の自由は与えられない。


例えば、修学旅行では、自由行動の範囲も示されるし、お小遣いの範囲も示される。

極端な話、お小遣いをどんなにもってきてどれだけ使おうが、こちらの知ったことではない。

しかし、そこを完全に自由にして「買い物ツアー」になってしまっては、修学旅行の目的自体が達成されない。

だから、行動範囲も買い物についても制限を設ける。

枠組みの中で自由に動いてよいということになる。


一番楽なのは、自由行動一切なしの集団ツアーであるが、これはこれで修学旅行の目的が達せられない。

だからこそ、普段からなるべく権限を与えて自己決定を求めていく。

いきなり大量に与えられると、使い方を誤る。

徐々に選択のできる権限移譲をしていくイメージである。


強制・矯正は教育からなくならない。

一方で、選択・個性を認めていく割合を増やす意識でいることが肝要である。

2023年3月18日土曜日

楽しむことが支援になる

先週3月11日、久しぶりに「被災地に学ぶ会」へ参加した。

今号はその報告レポートを兼ねて、考えたことを記す。


いつも通り、南相馬のボランティアセンターが活動拠点である。

南相馬の地へ入って、様子が大分変わったという印象をもった。

何というか、震災数年目までの頃と違い、そこに確実に人が暮らしているという感じがある。

土地が整備され、コンビニや他の店も増え、確実に前進しているという感覚をもった。


昼食休憩の際、毎度お世話になっているお弁当屋さんにお話を伺った。

確かに町は以前よりもかなり復興し、生活インフラも整ってきた。

しかし問題はとにかく「若い人が帰ってこない」ということだそうである。


折れ線グラフでいうと、復興の度合はここ10年で確実に右上がりになっている。

しかしマイナスから0に近づいてくるにつれ、線の傾きが横ばいになってきている感じである。


あの年に生まれた子どもたちが、もう4月から中学生になる。

つまり、他県等へ避難した場合、もうそちらの土地に慣れ親しんで育ったということである。

当然、移り住んだ土地にお世話になったと感じるほど、その土地への愛着も湧いてくる。


「人が戻ってこない」という現実の厳しさを感じた。

そして「若い人がいない」というのは被災地に限らず、地方の多くの自治体が抱える共通の悩みでもある。


その地へ移り住む人が多ければそれに越したことはない。

しかし人が多く住まなくとも、人が多く訪れる地であれば、それも町を元気にする。

人口は少なくとも観光客が多い土地はある。

また、多くの人が訪れなくても産業やインターネットの活用等で生きていく手段もある。


少し視点を大きくすれば、県単位で見て潤うことも必要である。

ある市町村自治体の財源が少なくても、他の自治体が稼ぐなどして県自体が潤っていれば、その恩恵で再分配できる。

(ちなみに我が愛する千葉県は、日本一のテーマパークや成田空港等の存在で、全国各地、世界各地から人とお金が入って来る土地である。

有難いことである。)


福島県で泊まった民宿の方のお話が印象的だった。

「もう復興という言葉は終わりにしたい」という。

確かに、復興というのはマイナスから0へというイメージが強い。

こちらは「復興支援を続けること」が大切だと信じていた。

しかし、その土地に住んでいる人が、真逆の意見を実感として述べているのである。


例えば同じ「福島県」という括りの中でも、その場所ごと、まして人ごとの悩みは違う。

特に福島は津波に直接被害を受けた土地、原発関係で避難勧告が出た土地の影響はクローズアップされやすい。

一方で、津波の影響は全くない場だが誹謗中傷やデマによる大きな被害を受けた土地や人もある。

その影響の大きさも、業種や人によってそれぞれである。

各支援金がどの土地にどう分配されるかという切実な問題もある。


民宿のご主人曰く

「とにかく遊びに来て思い切り楽しんで欲しい」

とのことである。


また「福島の野菜は世界一安全」という話も聞かせていただいた。

福島からは、他にはない放射線物質測定の厳しい検査基準を越えたものしか流通しないシステムがあるからである。

その自慢の料理は、どれも間違いなく美味しいものであった。


(参考:ふくしま復興情報ポータルサイト 農産物等の放射性物質モニタリングQ&A)

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/nousan-qa.html  


復興支援には、何か特別なことが必要だと思い込んでいた。

しかし、ただ楽しむために遊びに行くことは、その土地にとってものすごく重要である。

そもそも東北地方というのは、もともとが観光名所として名高い土地だらけである。

行けばレジャーに事欠くことはない。

その土地を楽しむことで活気づけ、喜んでお金を使うことが大切である。


今回の福島訪問で、一つ意識が変わった。

我々にできる最大の支援は、その土地へ行って思い切り楽しむことなのかもしれない。

それならば、多くの人が取り組みやすく、続けられる。

それはもはや「支援している」と言わなくていいのかもしれない。

楽しませてもらっている相手に対し、その立場は平等だからである。


そしてそれは、他の地でも同様である。

例えば熊本という土地は素晴らしい。

そこには阿蘇山をはじめとする雄大な自然と豊かな文化がある。

もう十分に観光地としての力は取り戻しているのだから、後は遊びに行くことでも力になれる。

完成が遅れるという話になっている熊本城再建にも、少しは自然と貢献できるのかもしれない。


これは被災した土地に限らない解決策かもしれない。

多くの人が、楽しみにお金を使う。

そのお金が多くの人に巡り巡って、豊かにする。


教育も同じである。

悲壮感や切迫感から行うものは、続かないしあまり身に付かない。

楽しく前向きに取り組むからこそ、よりよいものが手に入る。


節制そのものは大切だが、「悲観」や「自粛」の姿勢よりも、前向きな選択肢をとる必要があるのかもしれない。

2023年3月11日土曜日

被災地復興支援は忘れないことが大切

 東日本大震災から今日でちょうど12年である。

各地でメモリアルイベントが催される。


福島県H.P.より

https://fukushima-memorial2023.com/


東日本大震災風化防止イベント~さらなる復興に向けて2023~(汐留シオサイト)

https://fukkou-forum.jp/


けせんぬま伝承・防災文化祭2023『未来へつなぐ私たちのメッセージ』

https://www.kesennuma-memorial.jp/event/detail.php?id=120


私も車で福島へ向かい、ボランティア活動の最中である。

まだまだ、まだまだ、ボランティアの手は足りていないというのが現実である。

現地のボランティアセンターに行けば、やるべきことは山積している。

こういったことを伝えていくのも、教育記事配信者としての一つの役割であると自覚している。


今回も所属団体は「被災地に学ぶ会」である。

被災地に行けば、自分自身が学ぶことになる。

現地で役に立てるかどうかが自分の課題である。

作業は竹林伐採かもしれないし、草刈り機での作業かもしれないし、排水溝の掃除かもしれない。

とにかく、基本は人が戻って住めるようにしていくことを目指す。

復興は、その土地に住む人たちがいないと始まらないからである。


ここは大切な視点である。

自力で生活できるインフラを整えるまでを継続的に支援する、ということである。

復興支援の目指すゴールは、支援のいらない状態である。

そう考えると、まだまだ継続的な支援が必要ということになる。


ちなみに、一人一人の住民に対して、国はどう助けてくれるのか。

国からの直接援助は、即命に関わるような「緊急」状態でないとなかなか難しい。

元の場所へ戻るための個人宅への整備人員費用は出せない。

そうなると、ボランティアの手を使うしかないというのが現状である。


そして何より大切なのは、決して風化させないことである。

継続的な支援というのを考える上で、これは超重要事項である。

だからこそ、このようなイベントが意味をもつ。

みんな自分自身のことが忙しすぎる日常だからこそ、決して忘れさせないための仕掛けが必要である。


全員が今日被災地に行く必要など全くない。

行ける機会があってたまたまその場に行ける時間のある人が行けばいい。

現場としては、全然関係ない日にボランティアに行ったり、資金援助をしたりすれば、すごく助かるはずである。

学校教員のような立場ならば、子どもに話すこと自体が大切な役割であり、未来への貢献になる。


とにかく風化させないこと。

一人の力は非常に小さいが、それが集まると、とてつもない大きな力になる。

一人がずっと年間通してやることは非常に尊いが、これはかなり壁が高い。

それよりも、日本中の人が時々、ふと思い出したようにでも、少しでもやれればいい。

それがもし日本に何千万人いたら、また世界を巻き込んで何億人いたら、とてつもないことになる。


これからも小さな小さな一燈として、たとえ断続的にでも、活動に参加していきたい。

2023年3月4日土曜日

欠点の矯正をしてあげる教育は親切と言えるか

 自分自身に「欠点」があると考えているだろうか。


恐らく「ありません」という人はごく少数派である。

大抵の人は、自分に何かが欠けている、あるいはだめだと思っている点がある。


学校に通う意味とは、自分が変わるためでもある。

全て今のまま、そのままでいいのなら、学校に来る必要はないからである。

友だちに会うためだという意見もあるが、自分の人間関係を変えるためといえる。


学校には、枠組みがある。

どんなに言い方を変えても、規定された「正解」が厳然としてある。

教育基本法に書いてあることを基に、学習指導要領に定められている。


例えば算数ができるようになることも運動ができるようになることも「正解」である。

例外と思われる道徳ですら求める姿があり、「正解」がある。

例えば暴力や他人を不幸に陥れる身勝手な振舞は「不正解」である。


そうなると教師には、枠組みから外れた「不正解」については、「正解」に近づける義務がある。

立場上「勉強なんてできなくていい」とは言えない。

たとえ自分自身が「運動をしなくても生きていける」と思っていても、放っておくのは単なる職務怠慢である。

即ち、子どもに対して矯正をすることになる。


ただし

「漢字を身に付けさせる」という目的のために矯正の手立てを打つことと、

「漢字が書けないと将来困る」と脅して強制させる、

という話は別である。


こと学習全般においては、矯正すべきだから強制をしていい、ということにはならない。

強制しないで「やろう」と思えるように導くことが、教師の職能として求められる。


一方で強制してでも矯正すべきこともある。

危険なことへの「緊急停止」の場合である。

学校の転落防止の柵によじ登って遊んでいる子どもがいたら、何はともあれ制する必要がある。

このことについては、以前紹介した『〈叱る依存〉がとまらない』(村中直人著)でも書かれている。


つまり、強制自体が悪ではない。

何かをより良い方向へ正そうという矯正自体が善でもない。

それを使う文脈が全てである。


「欠点を矯正するために強制する」という状況を考えると、これも文脈次第である。


例えば、薬物依存症で苦しんでいる人を矯正するためには、強制的に薬物から遠ざける必要があるというのは一般的認識である。

一方で、実はいきなり強制的に遠ざけるよりも、使用量を少しずつ減らす、その失敗に対し社会が受け容れるという体制も必要だという。

(参考文献 『薬物依存者とその家族 回復への実践録 ─ 生まれ変わり、人生を取り戻す』岩井喜代仁 どう出版)


学校では、どのような場で強制を発揮して矯正し、どのような場で矯正を諦めてそのまま受け容れるといいのか。

学校の在り方としての課題である。

2023年2月25日土曜日

「強制は悪で選択は善」は本当か

 前号でも少しふれたが、学校における「強制」について考える。


強制されないということは、「しない」「選ばない」という選択肢がある状態ともいえる。


「選択=善」。

ここについては、比較的同意を得やすい。

選べないより選べる方がいい。

常識的である。


しかし、実際はそうとは限らないというデータがある。

経済心理学で有名な「ジャム実験」である。

(参考文献

『選択の科学コロンビア大学ビジネススクール特別講義』

シーナ・アイエンガー著  櫻井祐子 訳(2014)


簡単に言うと、選択肢が多すぎると決定を回避する確率が高まるという心理である。

この論自体についても賛否があるが、少なくともこの実験の状況下においてはそれが正しかったようである。


この本の中では、選択に関する興味深い実験がたくさん紹介されている。

私が特に興味をもった内容が

『第2講 集団のためか、個人のためか』の中の「取り決め婚と恋愛婚のどちらが幸せか」

である。

(ちなみに続く第3講は『「強制」された選択』である。)


インドにおける結婚の幸福度調査の話である。

予想通りだが、結婚1年目以内の夫婦においては「恋愛婚」の方が幸福度は高い。

しかし、これが10年を越えると、大きく逆転するのである。


現代日本人の感覚からすると「取り決め婚」はなかなか受け入れ難い。

しかし生前に私の祖母に尋ねたところ、祖父母の時代は取り決め婚が当たり前だったようである。

私の祖父母もそうであったようだが、互いにいい関係であったし、実際に祖母の話を聞いても幸せだったようである。


現代はどうだろうか。

恋愛婚が中心ではあるが、長期の幸福度に関してはどうであろうか。

時代背景が全く異なるため、祖父母の時代との単純比較はできないが、選択できる方が幸せとは言い切れないようである。


この本には、これとは異なる「強制」「選択」の調査の結果もある。

死に関する決定権である。

例えば脳死状態の愛する家族を、このまま生存させるか、生命装置を切るか。

ナチスにおけるアウシュビッツの「生かすのは息子か娘かどちらか選べ」というような苦痛しかない選択の場合。


これら苦痛しかない選択の場合は、強制あるいは選択権がない方が、後々の精神的ダメージは少なくなる。

選択が必ずしも善であるとは限らない一例である。


また、権威ある人の「これを選べば大丈夫」という太鼓判の一押しも、自分だけで選択をするよりも良い心理結果を生むという。

自分で選んだのではないが、選択眼のある人が言ったのだから大丈夫という自信につながるという結果である。


強制か選択かということ自体に、善悪はない。


最初は無理にやらされたけど結果的に好きになったという例だってごまんとある。

自分で選んだからこそ愛着が湧く、好きになるということだってある。


自分で選択したけどどれも好きにならなかった、深く後悔したということだってある。

強制されてやらされて、心の底から嫌ということだってある。


では、学校における「強制」はいかにあるべきか。

「強制」のない学校というのは考えられるのか。

「選択」をいかに取り入れていくべきか。


「強制は悪」「選択は善」と単純思考に陥らず、考えていくべきことである。

2023年2月18日土曜日

学びは楽しい

勉強が好きかと問われたら、どう答えるか。


常々「勉強は楽しい」と考えている。

小学生の頃から、得意ではなかったが苦にしていた記憶はなく、中学生ぐらいからは比較的好きになった。

中学の担任が国語の先生で、よく本をおすすめしてくれて、読書も始めるようになった記憶がある。


テストで高得点を狙って勉強するのは、ゲームの攻略に似た感覚である。

多少手間がかかることでも、攻略に必要なことをひたすらする。

その基本はあまり変わらない。


こういうことを言うと、結構な割合で、次のように言われる。

「そんなはずないでしょ。」


つまり、勉強がゲームのように楽しいはずがない、ということである。

「そんなことは嘘」と断言されることが結構ある。


もちろん、学ぶことの全てが楽しいという訳ではない。

例えば大学生の頃、数学で全く意味がわからず解法を丸暗記したことがあるが、それは苦痛であった。

意味がわからないことは苦痛につながりやすいのかもしれない。


自分自身は好きな教科だが、「算数が嫌い」という感覚自体は、何となくわかる。

わからないから嫌いになるというのは、大きな理由の一つである。

(もちろん、それ以外の理由もある。)

「歴史が嫌い」という人も、多分年号なんかを丸暗記させられた(そして内容はよくわからなかった)結果ではないかと思う。


逆に言えば、わかることは、基本的に楽しいことである。

だから勉強は、やればやるほど楽しくなる。

一方で、やればやるほど、わからないことが更に増えるという面もある。


「勉強嫌い」を世に生んでいるとしたら、今更ながらやはりこの「わからなさ」が肝である。


「強制」という点はどうか。

この言葉自体に良し悪しはない。

全く強制されなければ、色々な教科を学ぶことはない。

その中に、面白いと思えるものが見つかる。

そう考えると、「価値ある強制」というものは、存在する。


では、人々の勉強嫌いを多く生む「わからない」の原因は何なのであろうか。


授業に対するわからなさである。

これは教える側の授業技量の問題である。


ではなぜ、同じ教室で、ある教科における勉強好きと勉強嫌いが生まれるのか。

好きという子どもは、その授業でわかった、あるいは新たな発見があったからである。

そこは確かに、本人の資質に依るところが大きい。


では、わからない相手が悪いのか。

それを言い出したら、もはやプロではない。

まして公立の小中学校教員であれば、尚更である。


「わからない授業」が世に氾濫しているのであれば「教員免許がなくても先生に」という論になるのは至極当然である。

質を一切問わないのであれば、授業をすること自体は、誰にでもできることだからである。


一般的に勉強好きが増えるためには、授業でわかるという子どもが増えることが大切である。


ここで勘違いしやすいのが「噛んで含めるようなわかりやすい授業」を目指してしまう誤りである。

そういうことではない。

わからなさの中でもがき、最終的に自力でわかるような学ぶ力がつくこと。

これがないと「与えられたわかる」になってしまう。

外から付けただけの力で、やがて剥がれ落ちる。

最終的に自力で学ぶ方向にいかねば意味がない。


この「わかる」の目指す方向については、自力で読み取れる力をつけることであると考えている。


日本の教科書は、質が高い。

教科書をよく読めば、大抵のことがわかるようになっている。

「わからない」の原因の一つが、「内容を読み取れない」にある。

まずは、教科書の内容を自力で読み取れる力をつけることである。

(これはテストにも言える。苦手な子どもは、テスト内容自体が読み取れていない可能性が高い。)


つまりは、授業を聞いてよくわかったというより、授業の内容を自力である程度わかる力をつけたいのである。

予習の大切さが見直されているが、まさにここである。

自力で読める力をつけることである。


そのために、子どもが「自分で学ぶ」という習慣を、授業中に動機づけられるかどうかである。

そこが授業技量の分かれ目である。

単に宿題を出せばいいというものではない。

自宅で自ら学ぶのは、授業で動機づけられているからこそである。


最初は興味なかったけれど、やっている内に段々楽しくなってきた、やるようになってきたというのが理想形である。

その方向にもっていけるものであれば、方法は選択的な学習であろうが一斉授業であろうがどちらでも構わない。

それによる結果(=自ら学びたくなること)こそが大切である。


そう考えると、教える側が勉強嫌いの場合、ハードルが高い。

「仕方がないものだ」と思って教えるのと「学ぶことは楽しい」と思って教えるのでは、やはり教える側の動機に違いが出る。

(ただし、それでも「勉強好き」の子どもを育てられるという結果が出せるのであれば、全く問題ない。)


こんな文字だけのブログをわざわざ読むような人は、学ぶことが嫌いということは考えにくい。

学ぶのが好きという少数派側の可能性が高い。


この「学び好き」を、少しでも増やしていきたいのである。

特に社会に出てからの学びが、楽しくないはずがない。

学んだことが即実践できて結果として出るのだから、楽しいはずなのである。


だから、子どもに教える立場の人は、たくさん学びの場に出るのがいい。

学び好きの先生からは、学び好きの子どもが育ちやすい。

ごく自然なことである。


一方で「勉強嫌い」の子どもの気持ちを慮ることも大切である。

そのためにも、やはり様々な場へ学びに出た方がいい。

「さっぱりわからない研修会」「催眠術をかけられているかのような話」は、その点でとても有益である。

教える側には、時に教わる側の苦痛体験を思い出すことも必要である。

自分もそんなことをしている可能性を考えるきっかけになる。


学ぶことは楽しい。

本を読むこと然り、学びの場に出ること然り。

そして何より、その学びを用いた日々の実践から、最大の学びが得られる。

勉強しているからこそ、受けるテストに意味も価値も出るのである。


「進みつつある教師のみ人を教うる権利あり」(ジェステルリッヒ)


「学びは楽しい」と思える子どもが増える教育をしていきたい。

2023年2月11日土曜日

愛国心は自分と他人を大切にする基盤

 建国記念の日である。

第二次世界大戦後に旧紀元節が廃止された後、1966年に復活し、翌年より実施された祝日である。


6年生担任の場合に限らず、必ず子どもたちへする問いかけがある。


「世界で最も長く続いている国はどこでしょう」


これは師の野口芳宏先生の実践の追試である。

これを聞いて適当に予想を聞く。

有田和正先生の有名な言葉「予想はうそよ」であり、完全な当てずっぽうでよい。


「1位はどこで2位はどこで、それぞれどれぐらいだと思う?」とも予想しておく。


大体中国とかイギリスあたりがあがる。

中国は「4000年の歴史」という言葉があるし、イギリスは王が統治しているイメージがあるからだろう。

アメリカという意見も毎年出る。

世界史については未習で、アメリカ合衆国の建国が比較的新しい1776年ということは全く知らないだろうから当然である。


長く本メルマガの読者の方なら耳タコというぐらい書いた話だが、ずばり答えは日本である。

今日で皇紀2683年である。

西暦より660年長い、と認識しておくとすぐに出てくる。


その長さについては諸説あるものの、2位以下の国に比べても断トツに長く、世界最古の王室という点はギネスブックも認定の事実である。


参考:図録世界の王室 何でも長さランキング(本川 裕 「社会実情データ図録」サイト内より引用)



なぜ他国の王室が続かないかというと、王が途中で殺されてしまったり国自体が侵略により滅んでしまうためである。

地政学の視点から言って、地形というのは国が栄えるにあたり最も重要な要素である。

侵略されやすい地続きの国々と違って、四方を海に囲まれた日本とイギリスの王家が長く存続していることは偶然ではない。


その点、第二次世界大戦は本当に存続の危機だったといえる。

天皇がGHQにより処罰されて皇室の制度が禁止されれば、その時点で歴史に終止符が打たれたかもしれない、という事態である。

日本を占領しているGHQにとっては、天皇ほど邪魔な存在はなかったはずである。

これがなぜそうならなかったかという背景も、是非子どもたちに歴史で学んで欲しいところである。


愛国心を育むことは学習指導要領上でも明記されている。

そして国防は国の最重要事項である。


日本の一部には未だに「愛国心をもつこと」=「戦争賛美」という残念な思考パターンがある。

これはある時期の教育の結果である。

私の子ども時代の教育にも、その傾向が確実にあった。

国旗掲揚→愛国心→戦争という荒唐無稽な思考パターンである。

(特にこの教育を受けた世代は、外で学ぶ機会を自ら設けないと、このプログラムが書き換わることはないかもしれない。)


これは、全く違う。

国を愛することの本質は、自分自身を愛することである。


前号でも書いたが、確かにどの国にも、歴史の中で肯定しがたい事実がある。

侵略したこともされたことも、決して喜ばしくない事実である。

世界中でたくさんの人が死んだ戦争を肯定できるはずがない。

大航海時代に遡るまでもなく、各国間の略奪もある。


だからといって自国とその歴史を否定するのは、自分自身を否定する行為である。

自国というのは、自分の属する最小コミュニティである家族と同様、アイデンティティの一つである。

家族や家の過去にどんな歴史があろうが、それ自体を否定して自分自身を傷つける必要はない。

人間はただでさえネガティブ情報に着目する本能があるのだから、良いところに着目する教育をする方が健全である。


愛国心をもつことは、戦争賛美の方向では決してない。

むしろ、自国を尊重することは、そのまま他国をも尊重することであり、平和への希求ともいえる。

(「自国ファースト」とも全く違う。自分さえよければいいという姿勢は周りを侵害し、結果的に自分自身を傷つける。)


愛国心をもつとは、誰しも自分自身とそのコミュニティが大切で、尊重される存在だということを認めるためのベースである。

また、こちら側、例えば家族が傷つけられるのを黙って見ている訳にはいかないことが、世界が未だに平和にならない原因でもある。

自分や家族が傷つけられそうになったら抵抗するしかないのだから、互いに傷つけないようにうまく関係調整することが最優先事項である。

また、飢えて死にそうになっている人がもしいたら、裕福な自分のところへ米やパンを死ぬ気で盗んだり奪い取ったりしにくるかもしれないことも、考えるべきことである。

戦争そのものの存在を否定しても意味がないというのは、そのためである。


ロシア・ウクライナ間のような哀しい戦争が今でも各地である。

これを避けるためにも、自国を愛し同時に他国も尊重する姿勢が必要である。

自分自身を傷つけることを肯定すると、他を傷つける行為を肯定することに繋がるからである。


自己防衛の不安から攻撃行動をとったり、自暴自棄でやけになったりした状態からの行動が一番怖い。

だからこそ、自分と周りを大切にするということは、強調して教えるべきことである。


教えるべきを教える。

建国記念の日は、本当の愛国心とは、世界の平和とは何かを考え、教える契機である。

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