2021年11月30日火曜日

「あんなもの」は「すごく欲しい」の裏返し

物事は表裏一体である。

表に見えて出しているものの裏側を本音と見ると、見えるものが変わる。


国語の教材で「お手紙」という物語がある。

アーノルド・ローベルの有名な作品である。


がまくんはお手紙を「どうせこない」と言って拗ねている。

親友のかえるくんがどんなに「くるよ」と言っても頑なに否定する。


欲しくてたまらないという本心が裏側にあるからこそ、来ないという否定の言葉を強く表現する。

イソップの「酸っぱいぶどう」というお話と同じである。

木に登れないきつねは「あんなぶどうはいらないよ。どうせ酸っぱいんだから」と言う。

ニーチェの言う「ルサンチマン」(やっかみ)の心理である。


子どもの「問題行動」もこういう角度で見る必要がある。

表面的に見えている言動は、あくまでも表側である。


「どうせ私なんか」と言っている子どもは、誰よりも強く自分の価値への肯定を裏側で求めている。

いじめをする子どもは、誰よりも心身の安全・安心を求めている。

どちらの行為も、自分自身に価値を感じていて、生活が真に平和ならやらないことである。


もっと自由が欲しいと口にする場合、本当は現状のルールに安住している可能性がある。

もしその自由をポンと与えられると、うろたえるかもしれない。


子どもの言動も、表面的にそのまま見ない方がいい。

素直に見るということが表面的理解に留まるようだと、本質を見誤る。


「大嫌い」は好きの裏返し、あるいは自分自身が無意識化で直したいと思っている点の心理の表面化である。

大嫌いな人がいたら、それはどこか自分と似ている人という正視したくない事実が隠れていることが多い。


できないことを「やりたくない」は、「できるようになりたい」の裏返しのこともある。

(本当に興味がないこともあるので、見極めが必要ではある。)


表に出ている現象の裏側に本質があると見る。

ものの見方の一つである。

2021年11月28日日曜日

ルールと信頼関係

 過去何度も伝えてきている、学級づくりの原則がある。


その中の最重要項目が

1 安全・安心(信頼関係)

の構築についてである。


前提として

「信頼関係と、言うことをきけるというのは違う」

ということを押さえる。


強い信頼関係を築くというのは難しい。

だから、一朝一夕ではできないし、初日から最後の日まで築き続ける必要がある。


さて、次のような勘違いをしていないか気を付ける必要がある。

「子どもたちは黙って言うこともきくし、やるべきこともきちんとやる。

だから私と子どもたちの間には信頼関係がある。」


これは、信頼関係ではない。

どちらかというと

2.ルール(合意形成)

ができている状態である。


単純に「黙って言うことをよく聞く」というのは、言うなれば主従関係に近い。

これはこれでとても大切である。

国家との関係もそうだし、雇用主と従業員という関係もそうだし、交通ルールなども主従関係といえる。


無条件にただ言うことを聞くということは無思考であり、主体性に問題がある。

一方で正当な理由もなく、ただ上からの言うことだから聞きたがらないというのでは、無秩序である。

2歳児の「イヤイヤ期」と同じ状態である。

理由も聞かずにとにかく自分の思うようにしたいとわめくのは、集団にとっては迷惑千万である。


既にあるルールや当たり前というのには、大抵は必然性も意味もある。

学校の当たり前を問うという時にも、この前提は必要である。

その存在理由を考えた上で、要るか要らないかという検討ができる。


集団で信頼関係を築く中には、互いがそういったルールを守ってくれるだろうという前提も含まれる。

親子のように特別な関係ではない集団であれば、尚更必要である。


合理的なルールと安全・安心(信頼関係)は切っても切れない関係にある。

学級づくりの基本としておさえておきたい。

2021年11月26日金曜日

公私両方のものさしをもつ

「よく考える子どもとものさし」の話の続き。


子どもは学校内外における各種テストや決まり事を守る中で、公のものさしについて学ぶ。

基準に沿って正誤が決定する世界が存在することも学ぶ。

人との間で生きる人間として、これは必要である。


自分は「マイルール」で生きていると豪語する人も、社会の人々の支えなしでは生きられない。

お金を払ってモノを買ったりサービスを受けたり、車に乗ったりする以上、公のものさしは無視できない。

物事のルールやマナー(正誤)を知らないと、何かと不都合である。

知らぬ内に「ファウル」をして「ペナルティ」を食らう可能性がある。


一方で、「私」のものさしも必要である。

公のものさしで全てを決めてしまうと、全てが他人次第になる。

「これを好むべきだ」「こちらを選ぶべきだ」と好き嫌いや進む道すらも他人に決められてしまう。

これはいけない。


何が好き嫌いかの基準は、自分で決めるものであり、完全に「私」のものさしである。

したいかしたくないかという気持ちは、自分で決めるものである。


一方で、公のものさしに照らすと、したくはないがするべき、ということはある。

例えば列に並びたくはないが並ばないといけない、というような状況は十分にあり得る。

公を無視しての私の都合の割り込みは許されない。


社会で生きていると、このように公と私のものさしが対立することが起き得る。

どちらを優先すべきかは、その時の状況による。

周りから見れば明らかにAの選択肢が正しそうだが、自分はBを選ぶ、というようなことは、私のものさしをもつ人だけができる。


学校教育でこれを意識する必要がある。

学校では、公のものさしがかっちり決まっている。

いつの間にか、子どもたちは全てを公に委ねるようになる。


子どもは生来、公のものさしをもって生まれてこない。

赤ん坊は自由であり、私のものさしで行動する。

不快なら周囲に遠慮なく大声で泣くし、快なら笑うし、食べたくないものは食べないし、眠ければ眠る。

まっさらで何ももっていないからこそ、生まれ育ったその社会になじんだ常識を身に付ける。


公に染まりすぎると、いつの間にか私のものさしをなくす子どもが出てくる。

いつも周りの評価を気にし、自分のものさしがない。

よって、意思決定ができない。


「○○してもよいか」と何でもしょっちゅう聞いてくるようなら、その子どもには私のものさしがない。

あるいは、わかりきったことまで聞いてくるようなら、公のものさしも持っていない。


学校教育では、両方のものさしをもてるように指導する必要がある。


例えば、人が話している時に、話し手や周囲の迷惑を考えずに平気で口をはさむ子どもがいる。

これは、公のものさしをもっていない証拠である。

教え、守らせていく必要がある。


公に照らして、この場合はよい、この場合はいけない、と判断できるものさしをもつこと。

そのためには、ルールをきちんと教え、自分自身で守らせていくことである。

間違えている場合は知らせ、改善をサポートすることである。


ただし、常に監視と指示をし続けていれば、この公のものさしすらもずっともてない。

自分で考えないで判断してもらえるから、何でも「いいですか?」と聞いてくる人間になってしまう。


ここに対し、山本五十六の名言

やってみせて、言って聞かせてさせてみせ、誉めてやらねば人は動かじ

というのは理にかなった方法である。

最初は知らないのだから、教えてからやらせてみて、その後を見守ることが肝心である。



一方で、私の基準に従ってきめるべきところもある。

どちらにすればよいか、といったことは自分のものさしである。


小さいところだと、手を挙げるべきか挙げないべきか、言うべきか言わぬべきか、などは私のものさしである。

公のために言うということがあってもいいが、基本は私である。

周りに忖度しすぎて、私が言いたいことを言わずに終わってしまうのが大半である。


給食で減らしたいと伝えたりお代わりしたいと手を挙げたりするのもそうである。

これはきちんと自己主張する必要がある。


家庭教育だと、ある習い事をしたいと子どもからお願いしてくるのも、私のものさしがある証である。

自分の進路を自分で決められるというのもそれである。

就職や結婚にまで親に口出しをされているようでは、到底自立した私のものさしをもつ人間とはいえない。


公か私か、というのは対立構造ではない。

両方である。

公があるから私が生きていけるのであり、私がいるから公も成立しているという関係性である。


学校教育では、公のものさしの指導が中心になりがちである。

しかしながら、自らの意思決定を行う私のものさしを作る場面も同時に意図的に設ける必要がある。

2021年11月24日水曜日

潰れることの吸収力と柔軟性

Hondaの創業者本田宗一郎氏の話の中で

「車が提灯のように潰れることで中の人間を守る」

という話がある。


(『本田宗一郎「一日一話」 “独創”に賭ける男の哲学』PHP文庫

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=4-569-56402-X)


外側を頑丈に作ってある外国車との比較としての、自社の車の安全設計についての話である。


「潰れることで衝撃を吸収する」という柔軟性や吸収力が大切ということである。

今では技術が大幅に進歩し、エアバッグ他がこの役割を果たしてくれている。


潰れて衝撃を吸収するという発想はとても大切である。

そうでないと、中の人間にダメージが直接全ていってしまう。


今、不登校の数が過去最大ということで、問題になっている。

不登校は、学校としては悩ましい問題である。


これは、学校という公のものさしで測った時に、大きな問題なのである。


一方で、子どもの視点からすると、不登校は大切な選択手段でもある。

登校したくない原因(あるいは家にいたい理由)があって、それを選択している。

より大きなダメージを軽減するための選択とも考えられる。


これは、個人のものさしで見て、自分なりの選択をしているともいえる。


無理矢理連れ出すこともできる。

しかしそれは、個人のものさしを無視した行為である。


過去にも書いたが、不登校自体に人生としての善悪はない。

それが必要な選択ということがある。


社会人だったら、自分の心身を守るために、会社を休むことがあり得る。

会社を優先して本人が壊れてしまっては、元も子もない。

転職や退職が最善の選択肢ということもある。

その会社のために生きるよりも、自分の人生としてやり直せることの方がよほど大切である。


潰れる柔軟性と吸収力は、子ども時代から必要である。

一旦外側が潰れても、中の本体が無事であることが大切である。

人間でいうならば、何よりも大切なのは、生きる気力の方である。


吸収力や柔軟性をもって、しなやかに生きられる方を目指したい。

2021年11月22日月曜日

よく考える子どもとものさし

 子どもが自分で〇か×かを判断する機会を頻繁に設ける。

これを日常的にやり続けていくことで、子どもがものさしを自分で持てるようになる。


あらゆる場面で〇か×かの判断を迫ることである。


ある算数の文章題の立式で5×3なのか3×5なのか、判断する。

これに対し、これらを答えが同じだから同じだとする暴論、詭弁があるが、誤りである。

結果が同じで正しい答えが出るのだからいいという結果主義であり、公式主義である。

式とは数学の世界における言語である。

言語には文法があり、その順序には意味があり、二つの式は明らかに同じではない。

こういったことの正誤を判断できるのが、ものさしを持っていることの証である。


Aという意見に賛成か反対か。

ここは走っていいか、だめか。


判断の場面は無限にある。


〇×をつけるには、ものさしがいる。

判断基準となるラインがあって、そのラインで〇か×かが分かれる。


漢字テストの〇つけを子ども自身がやるとわかる。

例えば「角」という感じを書くとする。

間違えるパターンは大体決まっている。

5画目が長すぎて「用」のようにはみ出していたら×である。

ここがものさしの基準になる。


はっきりと出ていたら当然×である。

しかし、慣れないと、子どもはそれでも「〇か×か」と教師の判断を仰いで持ってくる。

はっきり間違えているのにも関わらず、〇か×かの判断ができないのである。

自信がないのである。

ものさしを常に大人に委ねている子どもは、自信がなくなり自身のものさしがなくなる。

これは、トレーニングとして続けていく内に自信をもてるようになる。


問題は「ちょっと出ている」というような微妙な場合である。

この微妙な字は〇か×か。

どこまで許容するか。


ここへは文化庁が平成28年に出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」がある。

文科省からは、とめやはねなどに対し、字体の多様化による許容範囲が示されてはいる。


(参考:学校教育における漢字指導の在り方について

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/03/31/1369048_05_2.pdf)


これもよく読めば「自己判断」ということである。

基本的な字体があって、そこを基準に場に応じた許容範囲を判断せよということである。


「漢字を覚える」というための学習時と「メモをとる」という場合とでは明らかに違う。

インタビューのメモ時の字など、明らかに崩れているが、本人が読めさえすれば全く問題ない。

一方で、漢字を覚える場面やその定着を見るためのテスト、書写などでそのような崩れた字を書いたら、当然×である。

場に応じた判断が大切なのである。


先の漢字の〇つけに戻ると、指導方針が定まることで、許容範囲が定まる。

微妙なラインについては、指導者が基準を指導し、そこで〇×をつけることになる。

個々人のものさしだけだと、〇×がぶれてテストというもののもつ公平性が失われるからである。


先の「角」の例だと、新出漢字指導時、あるいはテストをやる前の時点で、

「角の字の5画目は下に出さない。漢字テストで出ている場合は×。」

と明示しておくことである。

そこまで基準がはっきり指導されていればぶれないし、書く側も気を付けるはずである。

結果、判別困難な微妙な字が減る。


要するに、漢字指導とは公のものさしを自分で持てるようにするということが含まれる。

その内、そんな細かいことを言わなくても判断できるようになる。


テストでは「自分なりのものさし」では測ってもらえない。

公のものさしに沿って判断される。

だから、テストで〇つけをしてもらっているだけだと、ものさしの基準を持たずに済んでしまう。


自分で〇つけをすることで、これがわかる。

「微妙なところ」は頭を使うのにうってつけである。

よく考える子どもが育てるためには、よく頭を使う場面を多く設定することである。

2021年11月19日金曜日

最適化する子どもたち

PCを長く使っていると、重くなってくる。

そうならないように、PCは自身に最適化の作業を行う。

不要なものを削除したり、よく使うものは起動しやすい場にもってきたりする。

ユーザーの都合のいいように自動的に変化してくれる訳である。


人間に限らず、生命全般も同じである。

環境に最適化するようにできている。

周りの環境に合った行動をとるようになり、場合によってはその場に合う形状に進化する。

シロクマの毛が白くなった(正確には透明だが)のもそのせいである。

そうしないと、生き延びることができないからである。

自分の命を守るために必要な動きをするよう、予めプログラムされている。


種としてだけでなく、個体としても最適化を行う。

個別の最適化である。


保護犬や保護猫はわかりやすい。

小さな頃から虐待を受けていたり捨てられたりなど、人間にひどい扱いを受けていたとする。

自分を守るためにすべきこと、即ち最適化は、人間を寄せ付けないことである。

当然、優しい気持ちで接してくる人間にも、警戒心を容易には解かない。

唸る、吠える、噛みつく、引っ掻くという攻撃態勢を取り続ける。

慣れた後であっても、実際には危なくないものにも、必要以上の警戒心をもち続ける。


これは言うなれば、心のコップがひっくり返った状態である。

これをコップが上向きになるよう周りは苦心するのだが、一朝一夕でうまくいくような簡単なことではない。


人間も同じである。

幼少期にひどい虐待を受けてきた子どもも、それぞれに最適化を行う。


ある子どもは、人に会えば誰に対しても野犬のように警戒し、恐れから威圧的な態度や噛みつくような言動をとる。

ある子どもは、常に先に相手を攻撃することで、自分が傷つけられないようにする。

ある子どもは心を閉ざして、何も見えない、聞こえないふりをする。

それらが彼や彼女らにとって、自分の身を守るために最も最適化された術だからである。


また違う形の最適化もある。

攻撃されないよう、相手に忖度し、迎合するよう言動を変化させるという最適化である。

先の攻撃型を硬派な最適化とすれば、こちらは軟派な最適化といえる。

例えば「失敗すると叱られる」という経験を多く積んだ子どもであれば、常に「お利口」であろう、完璧主義であろうとする。

そうすれば身を守れる。

子どもに限らず、大人社会でもよくある話である。


各集団の中でも最適化は行われる。

集団の中に強い者がいて、自分があまり出しゃばるとやられるようであれば、大人しくふるまう。

兄弟で自分の意見が通る立場にあれば強く出るし、「お兄(姉)ちゃんなんだから」と親に言われるようであれば、我慢せざるを得ない。

集団の中で最適なペルソナ(仮面)を付け替えて被っているだけであり、本人の性格がどうこうとは一概に言えない。



小さな頃から、人に会うたびに微笑みかけられ、抱かれ、愛され大切にされていれば、心のコップは上向きになる。

人に会えば喜んで近づき、人からの愛を受け取って溜めていけるようになる。

この世を安全な場、良い人たちの住む場と見るようになる。


ただ単純に、どちらがいい悪いとはいえない。

あくまでも最適化である。


警戒心をもっていれば、愛を受け取れない代わりに、危険な目に遭うことは少なくなる。

無警戒の場合、悪意をもった人間に簡単に捕まえられてしまうリスクが生じる。


オープンに人を信用していれば、あらゆるメリットを享受できるが、騙されるリスクは高まる。

閉じている場合、せっかくの愛情やいいオファーも断ることになり、チャンスを逃す一方で、リスクは抱えないで済む。


同じ人でも、場によって行動は変わる。

賢明な人なら、危険な場であればオープンにせずに警戒するし、安全と認識すれば心を開く。

分別ない人であれば、全てを安全と妄信し受け入れてしまい、あるいは全てを危険物とみなし、攻撃する。

毒か薬かの見分けは必要である。


人は環境に最適化する。

だから学級が荒れていれば、閉じるようになる。

良い場であれば、開く。

それが集団で生き延びる上での最適化である。


子どもは場に最適化する。

だから子ども自身に見える問題を直接どうこうするだけでは足りない。

その集団(学校・職場・家庭)内が安全で開ける場であるかどうかは決定的に重要である。

2021年11月17日水曜日

知れば知るほど問が増える

 学級づくり修養会、HOPEでの学びのシェア。


この会では、参加者が各々問をもってくる。

それに対して考えていくというスタイルである。


まずこの問をもつということが全てである。

問さえはっきりすれば、半分は既に問題解決したも同然である。

問が見つからないということが、最も大きな問題であり、難問だからである。


参加者の中から

「自由研究の仮設を立てられない子どもがいて、どう指導したらよいか」

という問が出た。

まさに、「問がもてない」ということそのものである。

(ちなみに、総合的な学習の時間の探究学習のように、子どもが各自テーマを決めて年間通して研究するらしい。)


この問いに対する回答は

「そのことについて知らないから、問が出ない」

である。


例えば、ある子どもがサッカーをテーマに研究したいとする。

そうなると、サッカーのことを深く知らないと問は出てこない。

知ろうとすることで、初めて知らないことが出てくるからである。

逆説的だが、これが真実である。


サッカーのルールすら知らない人であれば「オフサイド」について問をもつことはない。

そもそもその用語自体を知らないだろうから、そうだとしたら100%そこに問をもつ可能性はない。

多分、「スローイン」を両手で投げねばならない理由も、スローインだとオフサイドにならない理由を考えることもない。

知らないから当然である。


オフサイドを少し知っていれば

「なぜラインはキーパー以外の一番後ろのプレーヤーに合わせて動くのか」

「キーパーは一人にカウントしないのか」

「キーパーが他の選手たちより前に出ていた場合はどうなるのか」

等々、問が生まれる。

(実際オフサイドは、キーパーどうこうというより「後ろから2番目の選手」の位置がそのラインである。)


多分、この数行のくどい解説も、知らない、興味ない人にはさっぱり意味がわからないはずである。

つまり、知らない、興味のないことに対し、確実に問は生まれない。


一方で、先に書いたように、知れば知るほど「知らないこと」が増え、疑問は生まれる。

正確には、「あれども見えず」の未見の部分がどんどん顕在化していくという状態である。


例えば、私は大学生の頃、小学校の授業についてはある程度知っているつもりだった。

教員3年目ぐらいには、「大学生の頃は青かったなぁ」とまあ大体知っていると思うようになった。

10年経つ頃には、見たこともないような授業の方法があるなど、全然知らないことの方が圧倒的に多いことがわかってきた。


さらに20年経つ頃には

「旧い方法も果てしなく深くあるのに、一方で常に新しい方法が生まれ続けている」

ということを知り、永遠に全てを知ることができないと考えるようになってきた。


知れば知るほど、知らないと認識できる領域の側の割合が高まっていくということである。


最初の問いに戻るが、要はそこである。

まず徹底的に知ろうとすること。

そうすれば、自ずから問は生まれる。

逆に、大した興味のないことに問が生まれることはない。


これは、私たちが何かしらの研究や提案をする際にも同じことが言える。

まずはそれについて知ること。

そこが全てである。

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