黒船来航
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教育メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の過去記事を週1回程度のペースで転載していきます。
長らく続けてきたこちらのブログですが、今後の最新記事は「note」へ移行します。
こちらのブログは過去記事等を保存し、継続して使用していきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
道徳教材からの気付き。
2年生の光文書院の道徳教材に『モムンとヘーテ』というお話がある。
徳目は「友情・信頼」なのだが、自分は違うことを考えた。
(この「同じ教材なのに人によって違うことを考える」というのが、今の道徳の授業で大切なことではないかというのが持論である。)
このお話は、ざっくり言うとケンカした二人の小人が仲直りする話である。
島が水没直前の状態で、二つしかない小舟に積んだ荷物をすべて捨てることで、友人を助けることにする。
二人はそれぞれ一つずつの小さな小舟に乗って、無事に島を脱出する。
そんなお話である。
自分は正直、ここに、友情や信頼どうこうはあまり関係ないと感じた。
この状況で荷物よりも人命優先は当然の判断である。
相手との人間関係がどうかも全く関係ない。
飛行機における避難時の脱出の際のルールと全く同じである。
(そういうことの正しさや判断基準を教える意味ではいいのかもしれない。)
この教材でどう授業するかを考える際、全く違うことを考えた。
まず、他人の分まで責任をもつ必要はないのである。
人生においては、各々、自分の荷物を自分で背負うことが大切なのだ。
背負えない人の分の荷物は降ろさせる。減らす。捨てる。
安易に代わりに持ってやってはいけない。
一緒に沈んでしまう可能性が一気に高まる。
もし持ってあげるとしたら、それは一生寄り添う覚悟がある場合のみである。
家族という最も親密な関係の間ですら、果たしてどうか考えるべきところである。
そして、救うなら、モノ(仕事)ではなく、人間を優先する。
当然のことである。
仕事においてもこれは言える。
仕事をどんなに優先しても、その人自身が救われる訳ではない。
仕事は、それをこなす限り永遠に増えてやってくるものだからである。
そもそもその荷物が多すぎる、重過ぎるという可能性を疑うことが先である。
人命救助が優先である。
多分、社会全体が、真剣に教員について考えてくれていると思う。
以前にも書いたが「教員はお気楽な仕事だ」と思っている人は、当事者はもちろん、世間的にも少数派であると感じている。
総仕事量自体が、全職員の「積載可能量」を完全にオーバーしているのである。
たとえ誰かを楽にしても、その分のしわ寄せが誰かにいく構造である。
その原因は、捨てていないからである。
要らない荷物が多すぎる。
かつては輝いてたその品物も、もはや骨董品というより単なるガラクタである。
例えるなら何十年前に流行った服など、クローゼット内を圧迫するゴミ以外の何物でもない。
さっさと捨てた方がよい。
色々な人が言っているが、もうあと2~3年以内に、学校現場は人手不足によって破綻するという。(既にしかけているが。)
私もこの意見に同感である。
人が更に減るということは、自分にその荷物が回ってくるということと同義であり、自分自身への危機と真剣に受け止めている。
当然、私のところに回ってきたら、大部分は捨てさせてもらうつもりである。
どうでもいいような荷物と心中する気はない。
国レベルの問題であるから、政治家でもない現場の自分たちが主体的にできることは限られる。
足元の仕事を捨てることである。
全部真面目にやってるからいけない。
砕けた言い方をすれば、そもそも設定自体が「無理ゲー」なのである。
本質的な、捨てられない仕事とは何か。
わかりきったことだが、子どもと向き合う仕事である。
そして、子どものよりよい成長に寄与する仕事である。
学習指導の在り方は、今後根本的に変わる必要がある。
申し訳ないが、義務教育においてもある程度以上の学年からは、一斉対面授業でなくてもいいというのが本音である。
特に中学・高校以降は、受験を考えるなら間違いなくYouTubeのようなオンデマンド型の手段か個別指導が有効である。
クラス内の個々の理解力の差が大きすぎるからである。
また一斉配信による指導は、もう何十年も前から大手予備校が採用して実績を上げている有効な方法でもある。
コロナ禍において、対面することの意味や価値が再確認された。
同時に、実はなくてもいい仕事がかなりあることもはっきりした。
わざわざ復活させる必要は全くない。
かつて要るものだったものは、もう要らないのである。
本当は、国レベルでなくして欲しい作業は山ほどある。
一度作ったら二度と見ない書類を日々山ほど量産しているのが学校現場である。
しかし、それを言っても仕方がない。
学校裁量、学年裁量、学級裁量でなくしていける仕事をどうにかするだけで、大きく変わる。
常々言っているが、「ドリルの〇つけ」や「教室掲示」は、子ども自身にもできる作業である。
「それぐらいのたかが小さな仕事」が積り積もっているから、とんでもない莫大な量になっているのである。
旅行が下手な人の、「万が一」に備えてパンパンに膨らんだバカでかいスーツケースのようなものである。
そもそも、たかが担任というだけで、子どもの人生の荷物を代わりに背負ってあげる訳にはいかないのである。
「担任」が「担い、任されている」のは、子どもたちの人生そのものではない。
少ない知識と人生経験から「こうするといいと思われます」という程度のものを提示するだけである。
それだけでも、後々の影響を考えれば「蝶の羽ばたき」どころではない大きな仕事である。
教員の仕事は、本来大変さもあるが、楽しいものである。
子どもたちが喜ぶ姿、成長する姿を目の当たりにした際に得られる感覚は、恐らく他の仕事には代え難い。
今は、楽しさや喜びの方のサイズや質の問題ではなく、大変さのサイズが度を越しているのが問題なのである。
要らない荷物は、捨てる。
自分自身を含め、人命を優先する。
働き方改革を考える上で外せない視点である。
働き方改革について。
現場教員としてのリアルな感覚を述べる。
100%主観であり全ての教員に一律に当てはまるものではないが、私という一つのモデルの示す事実でもある。
まず第一に、労働時間について。
これについては、かなり的外れな指摘や「改善」提案が多いと感じている。
教員の長い労働時間自体は、今に始まったことではない。
はっきり言えば、教員の仕事自体が辛いのではない。
やり甲斐を感じられない作業や無意味だと思える仕事が多すぎるのが辛いのだ。
法的に決められている仕事がある。
例えば出席簿等の学籍関係、あるいは指導要録や抄本などの記録関係書類の作成等である。
これらは法が改正されない限り拒否できない。
やる意義や必要性どうこうを考える前に、やるしかない。
何の見返りもリアクションもない各種アンケート類や報告書への回答。
どこぞの各担当部署から出る「ちょっとした調査」が積み重なり、湧き水がやがて大河になるが如く、雪崩のように押し寄せてくる。
(これはどちらかというと、管理職など外部との折衝が多い立場の人の方がより苦しいかもしれない。)
内容はさておき無節操に増え続ける各種年代毎の悉皆研修。
(せっかく免許更新講習がなくなったのに元の木阿弥状態である。)
ウィルスや事件・事故、あるいは「新教育」と連動して常に増え続ける「〇〇対応チェックリスト」系への記入。
最初に作って指示した人はもう既におらず、「もういいでしょう」と誰も言えない、旧制度の残滓の数々である。
当然のように過剰サービスを求められ続ける各種の「丁寧な」対応。
「教員の使命」の名のもと、「これぐらいやるのが当たり前」のレベルが高すぎる作業の数々。
それら無意味としか思えない事柄に時間を食われることが辛く、徒労感という大きな疲労に繋がっているのである。
無意味の中に意味を見出すことはもちろんできるが、それはこの問題の本質的解決にはならないどころか、真逆の方向である。
どうでもいいことをより能率よくこなせばこなすほど、より事態は悪くなっていくのである。
どこかで「NO!」をはっきりと突き付ける必要がある。
「日々の授業準備に追われている」というが、これも表現的には誤っている。
大抵の教員にとって、授業準備自体は、嫌なものでも辛いものでもなく、本来、楽しみですらある。
しかしそれを始められるのが確実に勤務時間外、日がすっかり沈んでからという現状が日夜続くことに、絶望感を抱くのである。
そして「仕方ない」「下らない」と思う、我々の手の届かない位置から降りてくる各種命令に従うほどに増す徒労感。
過剰なほどの準備・対応を命じられ、それに従う際の拭いきれない違和感。
これらあらゆる「使役」のもたらす精神的疲労感は、子どもを相手にしたり授業準備したりといった爽やかな仕事の疲れとは一線を画す。
次に話題を変えて、各種手当について。
これも完全に的外れであると感じている。
ここは手当が増えれば嬉しいだろうという単純な構造ではない。
給与自体が倍増するというような劇的な変化でない以上、大した効果は生まないどころか、逆効果にもなりかねない。
(そもそも教員を志すような人の多くが最初から強く求めているのは、そこではないはずである。)
ここについてはよく指摘されているが
「残業手当を増やすということは残業を認めるということ」
でもある。
つまり、よりよい対価を支払われるのだからもっとがんばれということにもなり得る。
私は部活動指導がないので直接関係ないが、休日に4時間以上部活動指導をすると一律3600円が支給されるという。
4時間「以上」で初めて支給され、一日中だろうが同じ「一律」の金額である。
この金額を「多い」と感じる人は少数派だろう。
ほとんどの自治体の最低賃金で定められている時給より低いレベルである。
自分が実際に毎週のように指導してみれば、その大変さがより顕著になるはずである。
そして根本的に、部活動指導は、時給換算のアルバイトでは決してない。
そこでもし「税金からきちんと支払われてるんだからもっとがんばれ」と言われたら、相当やる気をなくすのでないかと推察される。
休日を返上してまで部活動に情熱を注いでくれている(あるいは仕方なしにでもがんばってくれている)教員が主として求めているのは、そこでないことだけは確かである。
なぜこれら「奉仕的」教育活動に対して「お金で解決」が良くないのかというと、お金という存在自体がその対価として見合わないからである。
例えば、気持ちよくボランティア活動をしている人々に対し、時間や成果に応じてお金が支払われたら、かなりの違和感である。
やるせない感じと、やる気が一気に失せること必至である。
部活動指導の対価として求めているのは、そこではなく、学びや満足感、充実感など、知的な面や感情的な面の方である。
(あるいは義務感でやっている場合、きちんと休日ぐらい休ませてくれという切実な思いの方である。)
ちなみにこの考え方には、基になる参考文献がある。
『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』
近内悠太著 ニューズピックス
贈与というのは、資本主義的な交換の原理、ギブアンドテイクの原理と根本的に違う。
その考え方では、贈与という行為と折り合いがつかないのである。
この本を読むと、我々の仕事の「やりがい」と呼ばれるものの真の正体は、贈与であると考えられる。
それが将来誰にとってどう役立つのかはわからないし見届けられないが、それが後で「役に立っていた」と感じる瞬間がある。
しかも、その瞬間がいつ来るかも、あるいは来ないかもわからない。
加えて、その鍵を握っている主体は、贈与を与える側ではなく、受けとる側である。
それでも、信じて、ひたすらやる。
教員の仕事の本分は、まさにここにあるといえる。
やりがいは、それをやること自体に価値を見出しており、その対価を求めないのである。
「やりがい搾取」という言葉があるが、真のやりがいは他によって搾取されない。
なぜなら、心の底からやりたくてやっていることの場合は、周りがどんな意図であれ、絶対に他に「やらされていない」からである。
(例えば大好きなゲームやマンガに没頭している時、あるいは気の合う大好きな人と一緒にいる時、「やらされている」「読まされている」「いさせられている」と感じている人はいないだろう。)
これらの全ての事柄についてまとめると、働き方改革の本丸は、労働時間短縮や金銭の問題以上に、徒労感の解消である。
くだけた表現をすれば「どーでもいいことをしない(させない)」に尽きる。
どーでもいいことをしない主体は、働く側にある。
これは『不親切教師のススメ』で提唱している数々の事柄などが例に挙げられる。
一方で、どーでもいいことをさせない主体は、管理者など命じる側にある。
「働き方改革」で経営陣側に求められている点は、ここである。
例え本質的に「どーでもいいこと」であっても、それを命じられた側にとっては、何とかして消化するしか選択肢がないからである。
そしてこれは、学級担任から子どもに対してでも当てはまるので、一般の教員にとっても無関係ではない。
「どーでもいいこと」に服従することに慣れた子どもが、どんな大人になるかである。
働き方改革について真剣に考えることは、目の前の子どもへの教育について考えることにも繋がる。
働き方改革は、どうでもいいことではない。
現場が真剣に考え、それが本当に意味があることなのか、真実を探っていく作業である。
多様性の尊重について。
「多様性を認めよう」という声は、もはや世間に浸透しきり、当たり前、常識と化してきた。
ただしそれが実際に当たり前に行われているということとはまた別である。
「いじめをなくそう」「差別はいけない」といったスローガンが浸透しているのと同じである。
ただ世の中で賛成する声が多い考えになったというのがポイントである。
以前にも書いたが、これがどうしても矛盾を生む。
「多様性を認めよう」を全てに適用する場合、「多様性なぞ認めない」というような人の「多様な」意見も認めるしかない。
しかし、それを認めれば「多様性を認めよう」という正義に反する。
必ず自己矛盾に陥るのである。
全ての「○○しよう」は、正義の主張である。
つまり、○○に反する△△は、排除の対象となる。
△△派からすれば、○○も正義に反する意見である。
正義の主張は、必ず対立を生むという構造上の宿命を背負っているといえる。
「多様性を認めよう」は、一つの正義の主張である。
即ち、確実に対立を生む。
教える内容がある程度決まっている学校教育においては、特にこれが難しい。
多様性を認めるとは、例えば使用言語もバラバラでいいということだろうか。
これでは、会話自体が成立せず、カリキュラムが決まっている内容の教育は、ほぼ不可能である。
多様性を認めるとは、学校に来なくても、あるいは勉強をしなくてもいいということだろうか。
教師の言うことを全く聞かないことすらも「多様性の尊重」になる。
それでは、一切の教育が成り立たない。
多様性を認めるとは、何をしてもいいということだろうか。
それは、ルールを一切守らないことすらも認めざるを得なくなる。
そうなれば、社会としての崩壊状態である。
つまり「多様性を認める」は、全ての思想や行動を認めるという意味で受け取ると、不都合だらけになる。
また、多様性の尊重は、自由という概念と深く結びついている。
自由であるということは、自らの他によらないことであり、個々がその行動の結果責任をとる状態である。
つまり、何が起きても自分の選択の結果であり、他がどうであっても干渉しないということである。
(ここで、自分を攻撃してくる相手への抵抗をすると、またしても矛盾を生む。)
例えば、食べ物を粗末に扱う自由があってよいのか。
学校の授業中、好き勝手に寝ている自由があってよいのか。
自分がそうしたければ、他人を攻撃する自由があってよいのか。
自由や多様性の尊重を称賛する際、こういった負の面も大いに考える必要がある。
例えば、人の言うことや命令をよくきくというのは、本当に悪いことなのか。
会社のために尽くして働くというのは、本当に個人を尊重していない良くないことなのか。
何もすべきことが決まっておらず、全てが個人の自由な選択でいいというのは、本当に素晴らしいことなのか。
全面的にそうだということが難しいことだらけである。
そこで、多様性の尊重を、全ての考えに賛同することではなく、多様な存在自体を認めることとして考えてみる。
多様な存在があることを認める。
自分という存在にとって不都合、賛成できないものであっても、存在としては認める。
自然界自体、そうやって成り立っている。
そういう取り決めになったと考える。
もともと、それを認めないという取り決め(理不尽な差別)が常識だったのが、変わったと考える。
「多数派」「みんなと同じ」が絶対の正義ではないという考え方である。
そうすると、学校教育のあれこれについても、矛盾が解消できる。
何をしてもいいということと、そこに存在しているのを認められていることは、イコールではない。
あくまで、存在自体の承認である。
そう考えれば、多様性の尊重自体は、前向きに捉えられる概念となる。
多様性を認めるとは、教育の前提を引っくり返していいということではない。
あくまで多様な存在の一つとして認めるということである。
教育の前提としてやるべきことをしなくてよいという概念では決してない。
言葉は強力である。
だからこそ、言葉への単なるイメージに振り回されないようにしたい。
「食事を抜いても読書は欠かさない」というぐらい、読書を大切にしている。
(単に好きなだけである。)
当たり前だが教育関連の書籍は否が応でも読む機会が多くなる。
また放っておくと、哲学的なものやドキュメンタリーなどにいきがちなので、小説も意図的に読むようにしている。
小説だと、毎年の本屋大賞の本は読む。
2023年の本屋大賞受賞作品である、次の本を読んだ。
小説を読む時は、特に心に残った台詞や文章を書き留めておくようにしている。
今回は、次の言葉がメモされていた。
================
愛と呪いと祈りは似ている
それは誰も救わない優しさだよ
捨てると選ぶは、意味が違うのに限りなく近い
================
選んだ言葉を見返すと、共通項が見える。
自分の心の琴線に引っかかる何かがわかる。
今回のものを見ると
「真逆なようで同種」
「表面的な意味と本質的な意味が真逆」
という共通項が見える。
自分が最近感じている教育観のテーマでもある。
『不親切教師のススメ』もこれなのである。
一見親切なことが本質的には不親切。
不親切なように見えて、本質的に親切。
『不親切教師のススメ』でやめようといっている親切とは、まさにこの「誰も救わない優しさ」である。
それは「愛」なのか「呪い」なのか「祈り」なのか。
「あなたのためを思って」の本質を問いたいのである。
『捨てる!仕事術』(明治図書)という本を書いたことがある。
この本のメッセージの本質も「本当に大切なことをやるために、捨てる」である。
『不親切教師のススメ』のメッセージも、本質的には同じなのである。
不要なことをやらないという決断は、やることの主体的な選択ともいえる。
魂レベルでやりたくないこと、やるべきではないと思っていることを、仕方ないからやる。
それは、じわじわと魂を毒殺する行為である。
本当は要らない、むしろ有害だと思っているのに、「みんな」や「常識」「慣例」に合わせてやっていることはないだろうか。
そういうことへの疑問を常にもつのは、結構大切なことだと思っている。
愛、呪い、祈り。
誰も救わない優しさ。
捨てると選ぶ。
全ては、バランスである。
一見真逆なものを両立させることで、バランスがとれる。
哲学的な話になってしまったが、教育にとって本質的に大切なことである。
前回『くだらない「かけ算論争」と決断できない教育現場』という記事を書いた。
これがまぐまぐニュースになり、ドコモのニュースサイトでも紹介されていた。
くだらないようで結構、人々の興味の対象ということである。
最近はまた
「筆算で定規を使わないと×」
とか
「絶対に下敷きを使わないとダメ」
とか、何十年前にも喧々諤々の論争があったのものが、再燃して色々騒がれる。
ネットやSNSの作用である。
それら全ては「謎ルール」とラベリングされることで思考停止し批判の的になり、一緒くたに処理される。
ただ前回「くだらない」と批判した先の中心は、論争自体の方ではない。
後半の「決断できない教育現場」の在り方そのものである。
正直、どんな議論でもそうだが、どちらの立場の意見にも、それぞれ理は存在するのである。
三分の理すら存在しないということはない。
ただし、全ての「正しさ」は、場が決める。
時代や文化によっても変わる。
時の為政者が決めることもある。
それは即ち、宇宙の真理とも言えるような絶対的な正しさは存在しないとうことの裏返しでもある。
では、そんな中で、現在の日本の学校教育の指導内容の正しさは、誰が規定しているのか。
教育基本法であり、それを受けた学習指導要領であり、つまりは文部科学省が決めているのである。
そこに決断して欲しいのであるが「現場の主体性の尊重」というような言葉でうやむやにされてしまう。
では、現場が主体的に判断しよういうことでいざ決断すると、ここに批判がくる。
もっというと、裁判沙汰である。
そうなるのは嫌なので、「主体性を尊重」された現場の方も、やはりうやむやにする、ということになる。
いわゆる上から下まで全てが「入れ子構造」である。
誰も責任を取ろうとしないのだから、結局決断しようがない。
本来指導すべき内容も「どちらでもいい」となるのである。
ここに関連して、次の「みんなの教育技術」(小学館)の記事は示唆に富んでいる。
ボツになった三つの原稿 ー上司、上役の判断、決断の「気がかり」ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第59回】
以下、記事中より引用する。(メルマガの読みやすさの都合上、句点毎に改行)
=========================
(引用開始)
「最も気がかり」なことを述べたい。
上司、上役、責任者の「判断」や「決断」が、「善」や「正義」を貫くことよりも自分の立場や責任上、現在の「平穏、無事」を保つための「保身」に傾くことである。
それは、「公」よりも「私」を重んずることである。
漱石は晩年「則天去私」の境地に到達したとされる。見事である。
(引用終了)
=========================
「公」よりも「私」を重んじて、判断と決断ができないのは、学校だけではないようである。
そしてそのくだらなさと弱腰の姿勢を批判すべきは、「上」ではない。
それをよく考えずに甘んじて受け入れ、付和雷同している、自分自身の方である。
よく言われるたとえ話に次のものがある。
人を批判して指差す時、「人差し指」の1本のみは相手を指している。
他の「中指」「薬指」「小指」の三本は、自分自身を指している。
(私見としては「親指」だけが誰も指していないことも象徴的であると思う。)
結局、現場にいる人間がそれぞれ行動しない以上、何も変わらないということである。
命令する側からすれば、理不尽で変なことでも大人しく従ってくれているのだから、変えようと思わなくて当然である。
それは、本来正しくないことを是とすることであり、公にとっても大きな損失である。
そういう意味では、一見「くだらない」と思われる各種議論には意味がある。
しかしその場合、多様性に対して前向きな議論である必要がある。
なぜならば、「多様性を認めよう」ということは「多様性を認めない」という考え方をも包含するからである。
一見矛盾しているようだが、それが真理である。
真逆の考えは自分にとっては正しくないが、相手にとっては正しい。
「これだけが絶対正しい」という考え方は、危険である。
その前提の上で、指導する時にはとにもかくにも「正解」を示すというのが教える者の仕事だという話である。
たとえ心の中で「違う考え方も存在する」ことを認めながらも、である。
私はネットの匿名で「頭がおかしい」とまで言われたことが何度もある。
恐らく、世の常識や当たり前を問うような、はっきりとした主張をしているすべての人に、不可避の体験である。
なぜならば、記事や書籍等を通じて「私」としてはっきり「主張」しているからである。
一つの主張には、必ず反論が出る。
陰と陽はセットであり、一方の存在により他方が存在できるからである。
つまり、「そうかも」と無意識下で思っていることほど、反論せずにはいられない気にさせてしまう作用がある。
これは、先の一見矛盾する多様性の尊重の話にも通ずる。
結論、当たり前に思っていることにも、議論が必要ということである。
そして、声や権力の大きい者や世間の批判にあっさり引き下がるのではなく、自分の考える正しさを言語化して伝えること。
年齢や立場の如何を問わず、この姿勢が必要ではないかということの一つの主張である。