2022年6月18日土曜日

態度について指導する点とは

相手によって態度を変える、と聞くと、良くないことのように思える。

しかし、この良し悪しは、場合によりけりである。


嫌がられるのは、部下には横柄なくせに上司にだけやたら腰が低い、というような場合である。

あるいは、気弱な人や穏やかな人には強気な態度で、強面の人や権威に対しては急にヘコヘコしだす、というような場合である。


これらは態度がどうこうではなく、心根の方が悪い。

人を理不尽に差別する心の醜さが態度に直結してしまっている悪例である。

別に上司に対して腰が低いこと自体は問題がなく、むしろ謙虚に見えていいことかもしれないのである。

しかし、そこに「目下の人間には横柄」という情報がくっつくことで、途端に悪い評価に転じる。


実際は、心根が優しくとも表現として見える態度がぶっきらぼうなだけの人もいる。

一方、心の中では相手を見下していても、それを一切態度には出さないという人もいる。

(特に接客業などでは、必須の態度である。)

逆に言えば「誰に対してもぶっきらぼう」という評価がされているのであれば、それを知っている人にとっては特に問題がない。

「本当は見下している」という評価がされているのであれば、それを知っている人にとっては丁寧な態度も逆にマイナスである。


このように、態度への評価というのは、心への評価と一体のところがある。

初対面やあまり知らない相手であれば心は全くわからないので、態度だけで全て判断されるということである。

だからこそ、接客業では心根はいざ知らず、丁寧な態度が望まれる。

一方で、詐欺師が相手を騙せるのも、心根にある魂胆を知られておらず、目に見える態度のみで評価されるからである。


態度については、教えるべきことである。

態度は、自己表現の一種である。

態度は、相手にどう理解され評価されるか、ということに直結する。


つまり、相手によって、態度は適切に変える必要が出る。

お客様に接する時と家族に接する時が同じでは不自然である。

「相手を大事にする」という点を外さなければ、その態度は相手によって違って然るべきである。


同じ相手でもTPOに応じて全く変えることがある。

時と場と機会に応じた相応しい態度や言葉というものがある。

同僚と話すにしても、訪問先にいるのと社内(職員室内)では違って当然である。

電話口では立場に関係なく身内を呼び捨てにするというのも、適切な態度の変化である。

(外部からの電話に「○○先生はいらっしゃいません」の誤りである。)


子どもに教えるべきは、態度が自己表現という点である。

挨拶は、態度の一つである。

どのような挨拶をするか、あるいはしないかという自己表現である。


物の扱いも、自己表現である。

相手を見て両手で物を渡せば、丁寧な態度の人という評価を受ける。

つまり、相手を見ず片手で渡すことで、無礼な態度の人という評価を受ける。

片方を学べば、逆も同時に学べるのである。


そして態度への評価は、多分に相手の受け取り方次第である。

丁寧な態度のつもりが、よそよそしいという評価を受けることもある。

親しみやすい態度のつもりが、なれなれしいという評価を受けることもある。


服装にしても髪型にしても、内面の自己表現の一つであり、その評価は受け手次第である。

きれいに装いを整えたつもりが、華美だ、派手だという評価を受けることもある。

親しみやすくカジュアルにしたつもりが、だらしないという評価を受けることもある。

長く伸ばした髪をきれいだねという人もいれば、鬱陶しいから切れという人もいる。

染めた髪を似合ってていいという人もいれば、髪は黒しか認めないという人もいる。

若い社会人や学校に通う子どもたちが悩むのは、この辺りの自己認識と評価とのギャップなのかもしれない。


態度について教える。

こういう態度が絶対にいい、ということを示すのではない。

態度は自己表現であり、相手による評価対象であるということを教える。

態度の選択は、社会における対人スキルである。


態度について指導できるとしたら、この程度のことまでである。

2022年6月11日土曜日

態度を指導するのは覚悟がいる

メルマガ第2099号(2022/2/19)の記事


態度とは、人間関係を構築する上での、外から見える内面の表現である。

またあくまで表現なので、言葉と同様、内面がそのまま出ている訳ではないという前提が必要である。


そして聞く態度が悪いと、気になる。

指導したくなる。

こちらが不快という点もあるが、子どもの将来を考えるという面もある。


この「将来を考えて」というのは、長期的視点として非常に大切である。

今を凌げばそれでいいという考えとは違う。


しかしながら、過ぎたお節介も考えものである。

こちらは子どもの将来を考えて指導しているが、相手がそれに感謝してくれるとは限らない。

むしろ、大半は「口うるさい」と思われるだけかもしれないというリスクをはらむ。


本人が「別にそれでいい」というのなら、それは本人の選択である。

ただ知らせるべき点は、悪い態度をとれば周囲が不快に思い、周囲からの扱いもそれ相応になるという点である。

望ましくない態度を改める気がないという場合、そういう覚悟をもってその態度を貫くことである。

つまり、態度について指導する場合、お互いに覚悟が必要になる。


相手が求めないお節介やサービスは、基本的に要らない。

こちらの都合で伝えることはあっても、相手にとっては要らないものであることは変わりない。

本来、態度が不快な相手には、相手をしないことが一番である。

教育の仕事の場でなければ、進んで関わることはまずないはずである。


なぜこんなことを書くかというと、それに深く悩まされる人が多いためである。

そんな悩みをもつような人は、基本的に善良で真面目な人である。

「指導者である自分が悪い」と自分を責め、思い悩むようだが、本当は関係ない。

相手の態度は、誰がどう教えようが、相手が子どもだろうが大人だろうが、そのまま相手自身の課題である。

こちらの立場がどうであれ、互いを尊重する人間関係という点では平等であり、同じである。


しかし実際は、不快な態度の人も相手にせざるを得ないというのが、人間社会の現実である。

店員さんに対し、客だから偉いとでも言いたげな態度の人がいるが、それを理由に退店させる訳にはいかない。

子どもの社会でも同様で、同じクラスに意地悪をしてくる子がいても、すぐにクラスが変わる訳ではなく、全く接さずに生きるのは難しい。


そうなると、この嫌な人の相手をする側は、これ以上怒らせたり嫌がらせをされたりしたくないから、懐柔策に出る。

なだめすかしたり、ご機嫌をとったりして、その場をやり過ごす。

結果、横柄な人はますます横柄になり、横暴になっていく。


冒頭の話に戻るが、長期的視点である。

学校は、よくなる可能性のある人を、横暴な人に育ててしまってはならない。

こういった不快な態度の子どもに対しては、子ども同士ではなかなか注意できないため、結局指導者がやるしかない。

短期的にはこちらが嫌な思いをしても、長期的視点での対応がやはり望ましい。


最高なのは、本人に気付かせられることだが、これは思考がまだ柔軟な子ども相手でもかなり難しい。

内面を変えるというのは、本人にしかできない主体的な作業なのである。


態度が悪いという相手を諌める時、こちらがノーダメージという訳にはまずいかない。

何と言っても、一筋縄ではいかない相手だからこそ、ここまで増長してきたのである。

相手が怒る場合はまだましで、「ウザいんですけど」というような対応をされることも珍しくない。

理不尽に逆恨みされて陰口を叩かれることすらも覚悟しないといけない。

それらもリスクをとった結果として、受け止めるしかないのである。


そうなると、どこまで自分のリソースを差し出せるかである。

態度についての指導をするというのは、そういうリスクへの覚悟がいる。

こちらも傷つく覚悟がなければできないことなので、多くの場合、難しいとされるのである。


子どもへの本質的な態度の指導というのが、どこまでできるものなのか。

もう少し掘り下げていきたいテーマである。

2022年6月4日土曜日

態度の意味について教える

「聞く」について考えていく中で、多くの場合、態度面を問題と感じていることがはっきりした。

見た目聞いていないようでも、心と頭という面からすると、聞いていることがある。

態度面は体の担保する部分である。

つまり、唯一無二のはっきりと外から見える部分である。


だからこそ、「問題」として捉えられやすい。

心や頭の面は、テストしてやっとその断片がわかる程度である。

その点、態度への評価は、そのままである。


生きていく上で、態度は非常に重要である。

嫌われても構わないという人もいるが、それでも多くの場合、わざわざ人を不快にしたいとは思っていないはずである。


子どもに直接教えられるのは、この態度面である。

礼儀と言い換えてもいい。

頬杖をついて話を聞いていれば、あまりいい印象がもたれないということは、教えないと意外とわかっていない。


前回の学習会でも、ここが論点になった。

聞き方を、態度面という型から指導すべきか否かということである。


私は「聞いているフリ」が最もよくないと考えている。

それは、自分を飾る、あるいは相手を見下している行為だからである。


一方で、先にも述べた通り、型を教えないと間違えたままということも起き得る。

それも互いに不幸である。


着地点として、型としての態度の意味を教え、その先の選択は個人の責任、という考え方である。

どうするのがいいのかは知っている上で、後は本人の選択である。

無論、相手が不快になるような態度でいれば、それに見合ったものが返ってくるというだけである。

それが跳ね返ってきた際に文句を言わないことである。


(意地悪すればいつか大きくなって時差で返ってくるということも併せて教える。

自業自得に、文句を言わないことである。)


態度の意味を教える。

その先は、自己責任とする。

「聞く」を教える上において、重要なことではないかと考える。

2022年5月28日土曜日

主体的に聞く

 「第3回学校教育のリアルな本音を語る会」は、「聞く」をテーマに開催した。

「聞く」というありふれた行為に対し、改めて問い直すことで、認識の違いがはっきりと出た。


「聞く」に関する学校のリアルな悩みは何か。

それは、多くの場合、態度面である。

しかしながら、態度が本当にその人間の内面を映し出しているとは言い切れない。

そんなことについて参加者と共に話し合っていった。


やはり、画面上であっても、顔を突き合わせての議論というのは、意義がある。

毎月のオンライン学習会もそうだが、前向きな議論からは、何かしら新たに生まれるものがある。


聞くという行為は、読むという行為と同じで、インプット作業である。

同時に、インプットしながら、頭の中で自分との対話が起き、アウトプット作業がなされる。

聞くや読む、見るという行為も、話すや書くという行為と同様に、主体的な行為といえる。


逆に言えば、頭の中で対話が起きないようでは、本質的に聞いた(あるいは読んだ、見た)とは言えない。

ただ聴覚的あるいは視覚的な刺激に脳が反応しただけである。

それでは「馬耳東風」「馬の耳に念仏」である。


(ここでなぜ「馬」ばかりがそんな扱いを、という疑問が湧く。

これは、決して馬を見下している訳ではなく、馬が他の何よりも人間の生活に密着した動物だったからだという。

永六輔さんが、「子ども電話相談室」で答えてくれている内容である。

なるほど納得である。

https://www.tbs.co.jp/kodomotel/etc/20020728.html)


そう考えると、子どもがやたらと「何で?」を連発してくることには深い意味がある。

子どもの脳内で知的作業が為されている証拠である。


成長するにつれて、だんだん「何で?」と思わなくなってくる。

大人の社会で「何で?」を連発していると、仕事が進まないし、不適応扱いされる可能性もある。

だから、言わない。


これは、知的退廃である。

見たこと、聞いたこと、読んだことに「何で?」「変だな?」「どうしてだろう?」と思わなくなる。


子どもは、その点、遠慮なくぐいぐい来る。

低学年の子どもなど、かなり根本的な問いかけをしょっちゅうしてくる。

ごく日常的に使っている用語にも「それって何?」が出てくる。


先日は、「ゲームって何ですか」と問われた。

あまりにわかっていると思いこんでいたことへの質問に、改めて問われて戸惑う。

わかった気がしているだけで、よくわかっていないことに気付ける。

(ちなみにゲームの定義としては「遊び」「勝敗」がキーワードである。)


全ての学習は、主体性が命である。

受動的と思われている行為にも、主体性が内在する。


真に聞く行為は、極めて主体的である。

「聞く」をテーマに深堀りしていき、自分自身の理解が深まったのが何よりの収穫である。

2022年5月21日土曜日

物分かりがいい教師は良い教師といえるか

 ここ数回「聞く」がテーマだが、まとめに入る。


前回は子どもが「聞かない」ということの必然性について書いた。

今回は教師が「聞かない」ということについて考える。


子どもが話し手になる状態を考える。

聞くのがこちらという立場である。


優れた聞き手は、優れた話し手を育てられる。

聞く力を磨く必要があるのは、教師の側にも同様である。


ところで、教師の「聞く力」あるいは聞く技能というのを、どう捉えるか。

理解力があるとか、よく話を聞いてくれるとか、色々あるだろう。


それらを一言で言えば、「物分かりがいい教師」である。

いつも話をよく聞いてくれる。

わがままを聞いてくれる。

愚痴も聞いてくれる。

分かりにくい話も理解して、更に噛み砕いて説明してくれる。


子どもにとっては、ありがたい存在である。

しかし、それが子どもの将来にとってプラスになっているかは、疑う余地がある。


先のような存在は、「ガス抜き」として必要である。

癒しである。

つまりは、本来的には家庭の担う部分である。

(実際はそれがままならないから、学校のスクールカウンセラーのような仕事に需要がある。)


物分かりが良く、自分のことをわかってくれて、だめなことでも何でも話せる居心地のよい聞き手。

親友のような関係である。

あるいは、理想のパートナーのような関係である。


ただこれは本来、学校の教師や、会社の同僚や上司など、自身の属する公の社会に求めるべき存在ではない。

公的ではない、私的な関係である。

もしこれを公的な社会に求める場合は、聞いてもらいたい側が時間単位でお金を払う仕組みになっている。

医師やカウンセラー、占い師等のプロの提供する時間は、無料ではないからである。


教師があまりに物分かりが良いと、不都合が生じる。

自分勝手なタイミングで話していいという認識となる。

あるいは、分かりにくい話でも分かってくれるとなると、分かりやすく話そうという必然性がなくなる。


すると、分かりやすく話すための努力や工夫も生じない。

結果、身勝手で冗長で私的で分かりにくい話し方になる。

相手のことを考えて、短くズバリと言う「公的話法」(師の野口芳宏先生の言葉)は身に付かない。


最も良くないのが、「オウム返しスピーカー教師」である。

子どもがどんなに小さい声で話しても、分かりにくい説明をしても大丈夫。

教師が全て「翻訳」「拡大」して全員に話してくれる。(しかも長々と。)

子どももそれを学ぶため、子ども同士の発言は一切聞かず、教師の話す内容にのみ集中すればよい。

分かりにくい説明をしたら、それは全て翻訳下手の教師のせいなのだから、そこを責めればよい。


これは、必ず教育実習生に教える話である。

ついつい、良心的サービスでやってしまうのだが、子どもの成長を大きく阻害する。


一方、(一見)物分かりの悪い教師が担任だと、子どもの側に苦労がかかる。

算数の解き方の説明一つとっても、話し方に工夫と努力がいる。

下手に説明しても、担任教師を含めみんな「?」であるから、発言者の子どもへ「もう1回お願いします。」となる。

子ども同士も、教師が何も言ってくれないものだから、発言者の子ども自身の方を見て真剣に聞くようになる。

話す側も本気になって話す。

結果、子どもたちには、話す力も聞く姿勢も同時に身に付く。


至極単純化すると、そういうことである。

これが、日常生活の全てにおいて行われるのだから、当然子どもの成長の度合いが変わる。

子どもが主体となって進行する理想的な「クラス会議」で行われていることは、まさにこの状態である。


物事は表裏一体であり、「聞かない」という否定的に見える現象にも利がある。

「聞かない」の肯定的な面も、見直す必要がある。

2022年5月14日土曜日

「聞かない子ども」になる方法

 前号に続き「聞かない」を考える。


逆説的アプローチで「聞かない子ども」を育てるような指導を考える。


一つは、前号で書いた「どうでもいい話をする」「分かりにくい説明を長々とする」である。

これを日常化していけば、子どもが聞かなくなる。

全ての子どもにとって防衛的かつ合理的手段ともいえる。


もう一つは、聞いてなくても問題ない状態にするということである。

例えば、単に聞かずに騒いでいる子の「もう1回言って!」のリクエストに易々と応じてしまう。

例えば、ルールを決めたけれど、破っても何もなし。

端的に言って、真面目に聞いている人が損をする対応である。


どちらにも共通しているのが「熱心さ」である。

熱心に、説明をする。

熱心に、相手の要望に応えてあげる。


いずれも、良い結果を結ばない方向の努力である。


努力をするなら、逆の方向に力を入れるべきである。


短い説明で済む努力。

あるいは、説明しないで済む努力。


真面目に聞いている人が得する努力。

必要だから決めたルールは守るよう促す努力。


当たり前のことが抜けることで、聞かない子どもになってしまう。

「最近の子どもは話を聞かない」という声もあるが、指導の在り方も大きく関与しそうなところである。

2022年5月7日土曜日

「聞かなくてもいい」はあり得るか

前号では「教えない」の大切さについて書いた。

教えすぎるから、聞かなくなるのである。


今号ではここについて取り上げる。


「聞く」に関する指導の悩みが存在するのは「聞けない」からである。


前提から疑う。

「聞かなくてもいい」という状況はあるか。

ある。


教師が時にリラックスしてはさむ雑談など、別に全員が聞いてなくてもいい。

下らない話であり、ただお互いのリラックスのためでもある。

話す側にとって必要でも、聞く側にとって必ずしも要るものではない。

(聞いてないでぼーっとしている方がむしろリラックスしているかもしれない。)


全員のいる場で、特定の一人に用があって話しかけることがある。

(「○○さん、連絡帳を提出してください」など。)

これも全員が聞いている必要はない。

この問題点を挙げるとしたら、全員が聞かなくていいことを、全員に聞こえるように話している側にある。

個別に声をかけるべきところである。


つまりは、話す側にとっての自己都合的なニーズがあって話すという場合、相手は聞かなくていいという状況があり得る。

無理矢理売ろうとしている下手なセールスマンのようなものである。

教える側が「テストに出るからよく聞いて欲しい」と思っていても、相手はそう思っていない。

相手側に聞くニーズがない場合である。


(教師の側は「子どものため」と主張するかもしれないが、その内実は自分のためであることも多い。

私は若い時分、テストの平均点にやたら拘っていた時期があったのでよくわかる。

とても駄目な行為であったと反省しきりである。)


ここで反論が予想される。

子どもは授業中ぐらい全てきちんと聞くべきではないかと。


それはその通りなのである。

その通りなのだが、その通りではないこともある。

教師がいつも訳のわからない話をしていたり、下らないことばかり言っていたとする。

そうなると「真面目に聞く価値なし」と聞き手である子どもに判断される。


集中力というリソースには、限界があるからである。

無駄づかいはできないのである。


厳しいことを言うと、いつも訳のわからない説明をしているから、聞かないということである。

客観的に見て「聞かなくてもいい」状況である。


つまり「聞く」という行為は、話し手と聞き手の両方で成立する。

「聞かない」相手の中に問題を探しがちだが、実は話し手の側に問題が存在することも多々ある。


逆に言えば、どんなに相手のためを思って話しているつもりでも、最終的に結局は相手次第である。

相手が「聞きたくない」と思っている以上、「聞く」という状況は成立しない。

「日常が全て」である。


「聞く」という行為も、損得の問題なのである。

聞いて得するなら聞くし、得をしない(=損をする)なら聞かない。

大人も子ども同じであるが、そこはむしろ、忖度しない子どもの方がシビアである。


それは決して不道徳な話ではない。

メリットとデメリットは、人間の行動を決定づける最重要の要因である。


聞く子どもを育てたいなら、「聞かなくてもいい」を促進するような話はなるべくしないよう心がけたい。

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